熊本県民新聞 WEB版
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〒861-8034
熊本市東区八反田1丁目14-8

発行者:福島 宏

電話:096-234-8890
FAX:096-234-9883


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 小紙平成二十二年十一月号四面「熊本県柔道界OBの乱。汚されたスポーツマンシップ。県警絡みの大不祥事か」のスポット見出しについて。その後取材を重ねた結果、熊本県警柔道部、又は同部OBらの係わりは関知されなかった。柔道界現役を離れた某氏の非人道的行為が発端となったと見られる。詳細を報道すると傷つく人が居る為、登場人物はABCで表記、内容もかなりの部分を割愛した点了承願いたい。

 平成十七年六月、熊本県内で整復師として開業しているB氏を誹謗中傷する文書がB氏の関連先に送付された。A4紙に横書きで三頁半程、びっしり書き込まれ、最後に日付と発信者の署名捺印がされている。従って誰が出したか判らない怪文書の類ではない。しかし、内容はB氏への痛烈な批判、中傷と自己弁護に満ちたものであった。文書に堂々と署名したA氏とB氏は高校の先輩(B氏)後輩(A氏)の関係にあった。同じ柔道の道を歩き、似た様な環境にあった為二人の仲は親密と云っていい程良好であった。所がある出来事を境に二人の仲は割れ、前記の文書の配付となったのである。

  一連のトラブル発生は、この文書が配付された一年前に遡る。この年(平成十六年)B氏の元に、かつてA氏に師事していたC君が訪ねて来た。そしてC君が打ち明けた相談の内容は驚くべきものであった。以下はその話の概要である。紙面の都合上要点のみを記す。

  C君は結婚を前提にD子と交際、D子は妊娠した事が判り、C君と結婚する意志を固めた。D子はかつてA氏の所で働いていた為結婚の報告を兼ねてA氏を訪れ、C君と近く式を挙げる事、既に妊娠している事を話した。それに対するA氏の答えは「子供を堕胎しろ」であった。この一言でD子はA氏と訣別すると共に、C君から別れられるのを覚悟でA氏との関係を告白した。「A氏の元で働いていた時言葉巧みにホテルに連れ込まれ暴行を受けた。その後も数年以上関係を強要されたが誰にも相談が出来なかった」D子の告白を聴いたC君はそんな過去を持つD子を許して結婚、子供も無事生れた。

  この少し前、A氏の元で働いているF子からC君やD子は「A氏の所を辞めたい」と相談を受けていたのである。しかし、その頃C君やD子はA氏と親しく交流していたのでF子に「少し位嫌な事があっても我慢したら」と慰めていた。そのF子がC君とD子からA氏の性的虐待の出来事を聞く機会が訪れた。二人の話を聴いたF子は「実は私も同じ手口で被害に遭ったのです」と告白「別れたいけど仲々認めてくれないので困っている」と現状を明かした。その後F子と連絡をとろうとしたC君達だが、A氏が妨害するのか全くF子と連絡がとれなくなった。相談を受けたB氏は「A氏と話が出来るのはG氏しか居ない」と判断して事の経緯をG氏に話した。G氏はA氏と接触したが相手にされなかった。しかし、この一連の流れの中でA氏がF子と男女の仲であると知ったA氏の妻は`三下り半aも残さずA氏と離婚した。

 これに逆上?したA氏が前記文書を作成して関係者に配付したのである。A氏はD子、F子の他にE子とも関係を持っており、「E子の東京での暮しの面倒は全て自分が見ていて、マンションも買ってやったのに私を裏切った」と文書の中に書いている。が、小紙が関係者に確認した所、この様な事実はなく、E子は未だにマンションのローンを払っているとの事である。又、A氏は世界的にも有名になった柔道家の名前を実名で挙げ「柔道家が女性セブンに記事になり、その流れでE子の私生活が写真に撮られた(E子はその頃有名人)。記事になるところでC君、D子の問題が出て来た。訳は分らなかったが記事を二百万円で買い取る約束で記事は何とかおさまりました」とも記している。これは明らかな嘘。筆者は週刊誌記者に知人は多いが、一般人が金で記事を止める事は出来ないと誰もが断言した。A氏はC君、D子らに恩を売ったつもりだろう。

  まだまだ記事は続くがA氏の勝手な思い込み、想像と思われる個所が多い上、本欄と無関係と思われるので省略する。ここでA氏に一言。今回は大局的見地から真相を有耶無耶に記述した。筆者に相談したB氏を恨む事なく、十二分に反省して頂きたい。


C君とE子さん
A氏の蛮行で人生変わった

 C君は熊本の高校から東京の大学に進んで柔道部に所属した。D子も大学に進み同じ柔道の道を歩んだ。当然在学中も二人は交際していたが、大学卒業後D子はA氏の世話で東京の企業に就職した。問題はC君である。就職先に迷っている時B氏らが先輩の伝手を頼り某社に入社する事が出来た。しかしその少し前からA氏とK氏らがC君を熊本に就職させ、熊本の柔道界を強化?しようと画策していたのである。

  その頃熊本の某高校の柔道指導者らが定年を迎えていた。H氏が定年退職の後をI氏が継ぎ、コーチのJ氏が監督として就任するのではないかと見られていた(事実かどうかは定かではないがA氏がK氏に話した)。A、K氏らはJ氏をはずし、その後釜にC君を持って来る案を立てた(計算通りいけばC君を通してこの高校柔道部を抑え、県柔道界に力を及せると)。その為、C君を小、中学校時代に柔道を教えた郡部在住のL氏にC君を説得してほしいと相談。L氏も承諾した。そして既に就職し、新人教育を受けていたC君を説得、採用数日後にC君は退職届を出し帰郷した。ここからA、K氏らの目論見が狂い出した。

  K氏は盛んにJ氏では監督は務まらないと周囲に吹聴すると共に、部長を務めていたI氏にC君の採用を働き掛けた(それまで学校長らに相談はしていなかった)。I氏は学校側にC君の採用を働き掛けたが、柔道指導者は揃っていたのでC君の採用は不用と断った。絵を描いたA、K氏らは大慌てとなりL氏に相談を持ち掛けた。A氏がI氏の事を10カ条程の文に纏めL氏に送ったらしい。

  某日L氏はホテルにI氏を呼び出した。他にL氏の知り合いと云われる広域暴力団の組員三、四名が同席。その前でL氏は「C君を監督にしろ、しなかったら学校に街宣をかける」宣告した。I氏は学校に戻り、校長不在の為、教頭に事の成行きを話すと共に、県警の知人にも相談した。その夜K氏宅にA氏、B氏、県警関係者二人が集り、K氏夫妻を交えて話し合った。県警の一人はI氏と同期生。話合いの結果、A氏に、暴力団を呼んだL氏に電話をかけさせたのである。A氏は家の外に出て携帯をかけたので、内容は正確には分らないが「警察が出て来たのでやめた(C君を監督として入れる事)方がいい」と話したらしい。ここでC君の再就職話は完全に宙に浮いてしまった。焦ったA氏はK氏と相談してC君をK氏の伝手で某社に何とか押し込む事に成功したのである。本来ならこれで「一件落着」となる筈であったが、冒頭述べた様にA氏の暴力的女性問題が発覚。一気にA氏の信頼は失墜、小紙の報道に繋ったのである。


県警察官採用
術科枠は必要か

 熊本県警は警察官採用の際武道が特に優れた者を優先採用する枠を設けた。柔道、剣道に適用され、通称「術科枠」と呼ばれている。通常各科二名で、選択権は各師範が有している。制度第一回目に山田師範は吾子を採用し、その結果悲劇が生じた。その頃県警OB(警視で勇退)と話す機会があった。OB氏は「術科枠なんか無くしてしまえばいいんだ。地ゴロがあれこれ云ってくるので師範も大変だろうたい」と話した。前にも書いたが、地ゴロとは地元採用で警視クラスに昇進した警察官を指すらしい。それら部長クラスが知人らに頼まれ、無試験同様で入れる柔剣道枠に採って貰おうと師範に云ってくるらしい。

 所で今年はその枠に大異変が起きている。山田問題以後衰退の一途を辿っていた剣道部術科枠で五名が採用される一方、柔道部は一名しか採用されなかった。柔道術科枠には三名が受験したが学科で二名が落された。その中の一人は首席師範の子息である。人事課も山田氏の一件で懲りたのか。武道の実力以外に学力も必要と感じたのであろう。剣道枠の五名は学力も優秀と聴いた。柔道、剣道とも日本トップクラスを熊本出身者が占めている。伝統は守り続けたいものだ。



説明会参加八社・応募は一社
コスギ不動産・日本管財 二社JVが選定される

 熊本市は平成二十一年四月から熊本市営住宅の管理について、(株)コスギ不動産と日本管財(株)(本社西宮市)の共同体「熊本市営住宅管理センター」に業務委託を行った。指定期間は、平成二十一年四月から平成二十四年三月までの三年間である。市が示した基準価格一三億三千二百万円に対し、コスギ、日本管財JVは一三億千五百万円(何れも一〇万台省略)(税込価格)で申請、選定された。一共同体しか応募しなければ選定されて当然だろう。当時不動産業界で「何で一万三千戸もある市営住宅を一括管理させる必要があるのか」と不満の大合唱が起きたのも理の当然である。

  市の情報開示による「公募による指定管理者制度導入の経緯」によれば「これまでも熊本市住宅協会が一括管理をしていた」「個人情報保護、ワンストップサービスの充実(事務所は隣接)、サービスの均一化等の課題点があったため、分割しない方針を決定」と、云い訳にしかならない理由を挙げて一括委託を決定している。二十年十月「指定管理者公募に係る説明会」開催、八団体が参加した。しかし、同月二十七日の公募締切りには何故か前述コスギJVしか申請はなかった。同十一月十一日、指定管理者選定委員会を開催、「…申請者が仮に一社の場合であっても、選定委員会の中で当方式が適用できるかどうか、行政経営課と協議したところ、最低基準が設けられていないため、価格審査及び基本項目審査の中で失格とならなければ、一社の申請であっても、指定管理者候補者として選定可能であるとの回答を得られた」と、一社申請でも問題なしと結論付けている。選定は十二月議会で議決され翌年四月一日から実施された。

 この一連の流れを「出来レース」と喝破した人物が居る。その人物の話を裏付けようと取材に走ったが、一点集中出来ず「未だ作業中」とお断りしておく。熊本市内でコスギ不動産に継ぐ大手と云われる不動産業者は応募に意欲を燃していたが、何故か下りてしまった。某市議が裏で画策した結果の管理者条件であったとも聴いた。今云える事は裏に何かあったという事だけだ。


分割管理何故しなかったか
市住管理でコスギ甦った

 一万三千二百戸もの市営住宅管理を何故一括(一社)指定としたのか。不動産関係者以外にも疑問の声が上ったのを幸山政史市長はご存知か。二分割か三分割すれば受益不動産屋が増える。広く浅く利益配分となる筈。個人情報の管理(情報漏れ)は一社だから漏れがないとは云えないだろう。委託先が増えれば情報漏洩の可能性は増えるが、要は受託した会社のシステム管理が確りしていれば何ら問題はなかろう。二、三、四分割して委託すれば「細い所にも目が届く」という利点もあるのではないか。

 コスギJVにしても契約は三年間である。委託先の職員数も二十名、施設長一名、係長二名、正職員四名(屋内)三名(屋外業務)その他嘱託職員まで細く規定している。これらの正職員は、仮に三年契約が切れ、他業者に替った場合どうなるのであろうか(幸山市政が続く限り替る事はない?)。巷間の噂だが「コスギは市住管理受託で甦った」とか「熊本市に助けられた」の声を聴く。市住管理受託まで「いつ不渡りを出してもおかしくはない」とまで酷評されていたコスギであるが、同社は延現金払いで手形は発行しておらず、同業のやっかみ発言かも?。

 同社は昭和五十七年に直氏(現会長で大株主、熊本県議)が創業、有限会社を経て平成元年株式会社に組織変更、代表取締役に直氏が就任。直氏が県議当選後弟の康之氏が代表に就任、直氏は会長に就いた。平成十二年熊大病院前に建てた賃貸マンションは、日本初と云われる自己資金を使わない特定目的会社を設立、資金を調達した。以降四件程手掛けているが配当は予想外にいいらしい。同社の経営は管理収入が八割を占ていると云われ(市営と別に約一万戸)安定した経営状態(某金融筋)と云われている。唯一重荷とすれば、阿蘇ハイランドゴルフ場買収と、温泉リゾート「湯ら癒ら」建設の借入金十数億があるが、最近始めたバイキングが好評で客足は伸びていると云われる。尚市庁舎内に在る熊本住宅管理センターの業務は「日本管財に丸投げ」の噂もある。


旧RKKグラウンド
コスギ不動産とやっと契約

 RKK熊本放送(株)が所有していた菊陽町八久保の土地がやっと売れた(熊日一月十八日付報道)様だ。この土地を巡っては熊本放送とコスギ不動産の間で種々掛け引きがあって面白かったので、そろそろ書こうかなと思っていた矢先に熊日に先を越されてしまった。

 仮に小紙が先月号で書いていたら、この記事を書いた記者さんさぞかし書きにくかったでしょうね。年に一回位は小紙が先行する事もあるのでやっかみはやめて、小紙なりの毒舌を始めます。この土地については、土地バブルの頃、東京の大手開発会社から手離さないかと打診があり、坪単価も六万円前後が提示された。が、その頃はまだテレビ業界は好景気に沸いていた為か、まだ上ると欲張ったのか話は不調に終った。二、三年前頃から「RKKがこの土地を売りたがっている」との噂が一部で立ったが二万坪一括買いが出来る業者は居なかった様である。その内に小杉県議を通して?買収話しが浮上したらしい。コスギ不動産が示した額は坪二万円余。熊本放送は坪四万円前後を見込んでいた様だ。

 又コスギは「一部現金払いで、残金は土地が売れたら払っていく」条件も出したらしいが、これは熊本放送が蹴った。熊本放送側にも売り急ぐ理由があった。新社屋を建てた負担に加え、地デジ化の設備負担が重くのしかかって来たのである。グラウンドの資産税の支払いも馬鹿にならない。で今回の無事売買契約締結となった様だ。まだ売買価格は掴んでいないが、光の森ブームも去って、この辺りの地価は下落傾向にあり「二万円台後半が妥当ではないか」と見る業者も居る。熊日には「造成費用二十億円程」とあったが「そんなにはかからない」の声も。「熊本のナベツネ」と称されている小堀会長の手みやげが出来た?。コスギ浮沈のカギにもなっている。


羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く
郵便事業会社の莫迦

 昨年十二月二十四日付で、郵便事業(株)熊本支店長名で「第三種郵便物の定期調査について(通知)」が資料と共に届いた。年末でもあり放っていたら年が明けて、ボーとした郵便事業会社の課長代理の肩書きを持つ人物と、ひららしい男の二人が来社した。その前に第三種郵便を続ける上で必要な書類に目は通していた。そして驚いた。提出資料として

(1) 「定期刊行物の発行部数及び発売状況報告書(別添)。」
(2) 「発行部数を明らかにする資料」
(3) 「発行部数を明らかにする資料」

※上記(3)の詳細については別途「提出資料の概要」をご確認下さいとある。

 問題は、この(3)である。要約すると購読料の収入状況を証明する為、銀行振込通知書、払込金受取書等、発行部数の八〇%以上が有料と証明する物(即ち振込伝票、銀行預金通帳)を提出せよだ。又一括購入先では、各人から購読料を徴収したという証明を出せと云っているのだ。小紙の購読先を丸裸にせよと云っているのと同じである。「こんな馬鹿な条件は飲めないからいつでも第三種を取消してもいいよ」と云って追い返したら又先日二人連れが来たので門前払いした。この根は身体障害者優待制度が悪用された厚労省問題に端を発しているのは明らか。小紙は平成八年を取得した。申請から一年以上も認可がなかったので担当課を怒鳴りつけたら課長が素っ飛んで来てすぐ認可。以後毎年一回資料提出(銀行通帳一頁、郵便振込通知書数枚分、印刷所領収書写し)で済んでいたが、平成十二、三年頃「お宅はきちんとしているので以後不用です」と連絡があって以後提出はしていない。今頃になって購読先を全て明かせはないだろう。ボケが。



 一月中旬、某社主催の講演会で、元自民党幹事長野中広務の講演を聴いた。演題は「今・日本を憂う」で、古びたと雖も元自民党幹事長である。最近の政局について、われわれとは違った角度から論じてくれるだろうと、期待を抱いて参加したのである。

で、演壇に上った野中は先ず自己紹介。次に喋り出したのは、自己の生い立ちである。京都の生れで幼稚園、小学校から旧制中学校に進んだ。卒業後は大阪の国鉄に七年間勤務した。その間、昭和十九年三月に徴兵で四国の部隊に陸士候補生として配属された。丸亀の部隊に居る時終戦を知ったが、それは部隊の糧秣をトラックで取りに行った時、世話になっていたおばさんが居る家に行った時だ。八月十七日の事で、おばさんから「あんた達戦争は負けたんよ」と云われて始めて敗戦を知った。その後、仲間四人と敵兵に殺されるより自決しようと浜に行った。今龍馬の像が建っている所だ。そこに隊長が馬でやって来て「お前達は何をしとるか」と云って殴られた。隊長は「ここで死んでも犬死にだ、戦争責任は東条にある。東条を殺ってから死んでも遅くない」と云われて死を思い留った。その後は汽車に乗って百七つのトンネルを通って真黒になって高松に着いた。定期船などなく、闇船を雇って岡山〜神戸〜大阪を経由して京都に戻った。中略。当時海外から三百万人が引揚げて来て職がなかった。そんな時国鉄が二十七万人を雇用した。約一割だ。この雇用がなかったら日本はどうなっていたか分らない(と国鉄を礼賛)。自分は国鉄を辞めた後町議になり、合併した町の町長が三年間に二人死んでなり手がなく、皆に推されて町長になった。三期務め、周辺町村会長、近畿町村会長、全国町村会副会長になった。その時の会長が熊本の河津寅男さんだった。中略。

その後国会議員になり、初めて中国を訪れた。その時同行していたオガタという男が顔面蒼白になり、全身を震わせて倒れた。看護婦が来て注射をしたので四十分程で落ちついた。私が「どうしたのか」と聞くとオガタは「実は戦時中自分はこに居たのです。南京攻略の時も行き、ある倉庫の戸を開けたら、中に婦女子が一杯居た。私は戸を閉め上官に 『ここは婦女子ばかりです』 と云ったが上官は 『その中に便衣隊が居るんだ全員殺せ』 と命令され、自分達は殺さざるを得なかった。今日、地の底から足を引っ張られる様な力があって自分は倒れた」と話したのです。中略。(オガタの所属部隊名もなく婦女子の人数も不明。何を使って殺したかも説明なし)。


南京・記念館を礼賛

野中の講演は続く。南京の記念館にも行きました。日本の国会議員としては自分が初めてでした。今は十倍位大きくなっています(筆者注、『南京大虐殺記念館』 のこと)。記念館の入口を入ると入口に一番近い所に軍刀を持って女を刺している軍人の像がある。朝日新聞や毎日新聞が大きく貼り出されている。内容は百人斬りの当時の新聞であります。日本は何の補償もせず、中国孤児の問題もある。先日私の東京事務所に中国の十二歳の女児が来た。顔、頭の半分が真赤に爛れている。その子は「私が入ったらいけない所に入り、遺棄兵器に触れたのです。私は日本に責任を取ってくれと思って来たのではない。この実情を知ってほしいと思って来たのです」と云っていた。化学兵器は七十万発遺棄されている。今まで三万発を処理した。近く新しい処理機械が出来る。すると、四万発は処理出来る、それでも六十万発は残っている訳です。私は済まない気持で一杯だ。

ここまで聴いていた筆者は「我慢の限界」を自覚、席を立った。席を立つ前「野中よ、こんなたわ言は京都で話せよ、熊本じゃ通用しないよ」と壇上の野中に向って怒鳴ろうかと逡巡したが「主催者に失礼だろう」との思いから発言は止めた。その代りではないが席を立って出口に向う時「こんな馬鹿気た話が聴けるか」と小声で発したので近くの人達は聴こえたと思う。

主催者に後日聴くと「こちらが望んでいた話と違ったので戸惑った」との事。野中は所属こそ自民党であったが、部落解放同盟の力をバックに短期間で`大物政治家aになった成り上りである。陰の権力者としての利権は「野中広務・差別と権力」(魚住昭著)に詳しい。



 故熊本県警巡査の自殺は「剣道部員のいじめが原因」として、巡査の両親が熊本県(熊本県警)を相手に訴えていた裁判の判決が迫って来た。裁判所側は昨年九月二十九日の口頭弁論の際、双方に和解を打診、十月二十日までに回答を求めていた。原告側は和解を受容れる意志があった様だが、県警側は「和解に応じられない」旨主張。十月二十日に結審し、判決は本年一月十二日と決った。

  この日の弁論の中で裁判所側は原告側に「訴因の追加的変更をしてはどうか」と示唆した。これに応じて原告側は「本件請求の趣旨三項を五項として、三、四項に被告は原告博徳に五五〇万円。同真由美に対し五五〇万円を支払え」と追加した。又訴因の追加として

1、亡真徳の慰謝料請求権の相続。
ア、もし仮に熊本県警察官による亡真徳に対する精神的、肉体的攻撃(いわゆるいじめ)と、亡真徳が自殺した事との因果関係が認められないとしても亡真徳は、この様ないじめによって著しい精神的苦痛を受けたものであり慰謝料請求権を有していた。以下略。

 いじめの期間は「平成十三年四月から同十六年五月に死亡するまで」であり、被告に対する慰謝料請求権は一千万円を下らない」以上要旨のみ。結論として「いじめと自殺の間に因果関係が認められないとしても、予備的に亡真徳の生前の同人に対する県警警察官らによるいじめに対して、各自五五〇万円の支払を求める」と結んでいる。判決予定は平成二十三年一月十二日であったが、裁判所側が二月十六日に変更、双方も応じた。本件は「いじめ」の有無が焦点と見られ、原告、被告共、証人を立てて争ったが裁判を傍聴した限り「いじめ」が立証されたとは思えなかった。県警側優位に展開と見ていた(事実がそうであるから)が、亡真徳氏の交際相手であったN巡査部長の「いじめはあったと思う」証言が裁判官に微妙な陰を落した様である。


N巡査部長
「いじめあった」は責任転嫁?

 上掲の熊本県民新聞は、平成十六年七月号四面である。昨年の七、八合併号にも掲せたが「小さくて読めない」との声が寄せられたので、本号では大き目にした。平成十六年五月、県警剣道部員であった山田真徳(二三)氏が自殺した。県警記者クラブ加盟各社は何故か報道しなかった。

一、二週間後、小紙に「県警は巡査の自殺を隠そうとしている」と情報が寄せられた。取材に走って大方の状況は把握したが、遺族の心情を慮って報道は控えた。七月四日、毎日新聞が三面トップ「熊本県警いじめ?で巡査自殺、剣道部の派閥争い 3年 耐えきれず」の見出しで報道した。この記事に押される型で他紙も翌五日付で報道した。内容はほぼ同じ「剣道部派閥によるいじめ」が原因の自殺であった。

 小紙は月刊の為七月号一、二、四面を使って特集報道を行った。内容も派閥争いによるいじめが自殺の原因ではなく「交際中の女性」と「父である山田師範」にその責があるのではないかと「いじめ原因説」を全面否定したものであった。当時からN巡査(当時、昨年四月巡査部長に昇進)を「多情な女」として断じた。第一報では不倫相手を「某氏」としたが、Nの警察学校時代の教官であった(既報)。このNが山田側の証人として証言台に立ち、原告側の弁護人の「自殺の原因は…」の問いに「一番はいじめがあった事だと思います」と抜け抜けと証言したのである。`思うaのはNの勝手だが、この証言、一番恨んでいるのは亡真徳氏ではないか。
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