熊本県民新聞 WEB版
本紙の信条

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〒861-8034
熊本市東区八反田1丁目14-8

発行者:福島 宏

電話:096-234-8890
FAX:096-234-9883


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人目忍んでラブホ通い
町長の道徳感覚何処へ
 工藤秀一町長は相当女癖が悪いと、昨年の暮近く本紙に情報が寄せられた。
 その情報によれば「次期町長選に出馬が予定されている工藤建設課長は町職員と不倫関係にあり、それも複数人だ」と5人の女性職員の名前が書かれていた。この手の情報はよく寄せられるが、不倫相手が水商売関係が多いので見送る事が多い。所が工藤氏の場合`お手付き女性aが全て町職員とあった。そうだと倫理上又、公務員としても許し難い行為である(かつて幸山政史熊本市長のW不倫を本紙は暴いている)。早速取材に動いた訳だが、殆どの町民が`女癖の悪さaは語るが、証言しますという町民は居なかった。噂だけで記事は書けない。しかも近く町長選が控えていると分かり取材と調査を中止した。この取材中、予定されている二人の候補は、町を二分する争いを行っていると聞き情報がどちらかの陣営の策略かとも疑ったのである。

 2月24日投開票の結果、工藤秀一氏が初当選を果した。若し兼瀬氏が当選し、工藤氏が落選となっていたらこの報道はなかった。一私人と町役場の女性職員の不倫では話題性に乏しい。逆に云えば工藤氏は町長に当選後女性関係は絶つべきであった。工藤氏が町長就任後、同じ様な情報が「町長の不倫」として寄せられた。そこで裏付け調査を行った結果、5名の名前が挙っていた中で本号で報道の通りC子と不倫関係が続いている事が分かった。他の4人の女性については確認する事が出来なかったので現在進行形ではない様である。前置きはこれ位にして不倫の実態を町民にお知らせする。

 某月某日水曜日、午後6時過ぎ、町役場から出て来たC子が役場駐車場に駐車していた自分の車に乗り込んだ。少し離れた所に工藤町長の愛車が駐車している。C子の車が発進したので追尾を開始する。町道から国道218号線に出て松橋方向に下り始めた。C子が運転するホンダエデックスとの間に軽乗用車とトヨタプリウスが走っているのでこちらが気付かれる心配はない。25分後C子の車は218号から国道3号に合流、松橋町豊福のミスターMAXを左折、突き当りに在る「熊本南病院」の駐車場に入り、奥の方で駐車した。待つ事10分、工藤秀一町長が運転する軽乗用車がC子の隣に着いた。C子はすぐ下車して町長の軽の助手席に乗り込んだ。軽はすぐ発進、3号線を少し上って松橋町久具から町道に下り、同所のラブホテル「B1」の裏出入口に吸い込まれたのである。



甲斐前町長の後継を謳う
町舎建設用地取得にも動いた
 平成25年2月24日に行われた山都町長選で町職員生え抜きの工藤秀一氏が初当選した。同町長選は、甲斐利幸町長の任期満了に伴うもので、甲斐町長の不出馬を受けて工藤秀一山都町建設課長、兼瀬哲治町議が出馬を宣言していた。当初「一騎討ち」と見られていた選挙だが、公示前になって会社員の有働秀一氏が立候補、三つ巴戦となった。結果は工藤秀一氏6、059。兼瀬哲治氏5、667。有働秀一氏677の得票で工藤氏が当選した。

 山都町は`平成の大合併aで矢部町、蘇陽町、清和村の二町一村が合併して誕生したもので、合併後の議会運営も旧矢部町選出の議員が主導権を握っている。合併後矢部町長であった甲斐利幸氏が山都町長に就任、合併後の初町長選でも出身町の矢部の人口が多い事もあって再選を果した。今回町長に初当選した工藤秀一氏も甲斐町長と軌を一にして、矢部町建設課係長から山都町建設課長に栄転したものである。当然甲斐町長派のトップとして土木建設工事の発注を陰で支えていた訳で、今回の出馬も「甲斐町政を継ぐ」として旧矢部町を中心に票を集めた。

 他方次点に終った兼瀬氏は旧清和村の出身で、合併前は清和村長の職にあった。合併後町議に転身、今回の出馬となった訳だが、公示前の予想では「兼瀬優位」の声が挙っていた。

 この点について町民の一人は「甲斐町長が旧矢部町優遇の政策を行った上、新庁舎建設用地取得についても不明朗な噂が立っていた。兼瀬優位の情報に慌てて有働氏立候補を働きかけたという噂もあります」と語った。確かに合併前の人口バランスから見ても、工藤氏に400票差と迫った兼瀬氏に甲斐町政の批判票が集まったのは間違いはないだろう。断定は出来ないが有働氏の得票677の行方次第で工藤、兼瀬の逆転も充分可能であった。

 用地取得と庁舎本体の建設の入札疑惑については次頁に譲るが、工藤秀一氏の女性問題と共にこれらの情報は昨秋に本紙に寄せられていたのである。しかし、町長選前に報道すれば対立候補からの指し金と受取られる恐れがあり、今号まで持ち越していたのである。





ラブホB・1の101号駐車場内の町長の軽自動車



 日本維新の会共同代表で大阪市長の橋下徹氏が又云わずもがなの発言をして物議を醸している。橋下氏の発言内容は一部荒っぽい所があるが大方は事実である。慰安婦は確かに存在したが「従軍慰安婦」は存在しなかった。「従軍慰安婦」はレポライター千田夏光氏が昭和48年に著した「従軍慰安婦 正編」が初出である。即ち千田氏の造語であったのだが彼の国と、朝日新聞を始めとする日本のメディアがこれに飛びつき常用語となった。10年後の昭和58年、山口県在住の吉田清治なる元日本兵が「私の戦争犯罪―朝鮮人強制連行」を出版した。平成元年にこの本が翻訳されて韓国で出版され、慰安婦強制連行が韓国内で問題化しだした。この著書について日本の歴史学者秦郁彦教授が韓国済州島に渡り裏付け調査を行った結果「全てが嘘の著述である」と断定した。前後して韓国の許栄善済州新聞の女性記者が「吉田証言はデッチ上げ」を紙上発表した。

 それにも拘わらず宮澤喜一内閣が総辞職する前日、時の官房長官河野洋平が軍の関与と強制連行を認めた所謂「河野談話」を発表、軍官による日本の犯罪として一人歩きをする事になる。安倍総理は就任後河野談話と村山富市の「村山談話」の見直しを示唆したが、橋下騒動を見てトーンを下げ始めた。所でこれまで何人もの「従軍慰安婦であった」とする韓国女性が登場したが、誰一人、「誰に、何処の慰安所に連れて行かれた」との具体的表現がないのである。メディアも同様、ただ「連行されて」とか「強制的に連れ引れて」とは書くが固有名詞は全くない。オバケに連行されたか。



 本紙が数カ月に旦って調査取材の結果、工藤秀一町長は二町一村合併後の山都町建設課長に就任、その直後から複数の女子職員との交際が噂に上った。中でも本紙に登場するC子との間に「子供まで作った」との噂が広がっている。本紙が確認したC子との不倫の責任を町長はどう取るのであろうか。

1面でも記したが、工藤秀一町長と町職員の女性との関係の裏付けにはかなりの日時を要した。それは町民の情報が噂の域を出ていないこと、5名もの名前が列挙されていて一人一人裏付け取材をしたことが原因である。その結果町民から寄せられた情報の中のOCだけが現在も続いている確認を得たので今回の報道となった。

このC子について町内での取材で「前の御主人との間に子供が3人生れていた。4人目が生れる前に養子であった御主人を追い出した」という話や「元の御主人が4人目の子供は私の子供ではない。妻との性関係がないのに妊娠した」等周辺に語っているとも聞いた。又、しがない町雀の噂かも知れないが「C子の4番目の子供が成長するにつれ工藤課長の顔に似てきている」と語る町民も居た。

工藤町長は結婚して20数年になるが妻との間に子供は居ない。C子が4番目の子供を生む前「この子は夫との間に出来た子ではない、おろすかどうか迷っていると相談を受けた」という女子職員も居るとして、C子の4人目の子供に奇異の目を向けている町民も居る。これらの噂の真相を確かめるのは容易ではない上、記事としては生きないので不倫現場の確認に動いた訳である。

工藤町長とC子の行動パターンは単純で、大体水曜日をデートの日と決めている様である。早い日は午後6時前、遅い日は午後7時前頃から行動を起す。先ずC子が先に出て松橋の南熊本病院に向い、10〜20分遅れて町長が下って行くというパターンである。国道218号線の松橋町久具の国道3号バイパスのすぐ手前右が通っている「ラブホテルB1」だが、ここを通過して豊福在の南熊本病院の駐車場に行く。ここでC子は工藤町長が到着するのを待ち、町長の車に乗り替えて「B1」に向うのである。それも、来たコースを逆に辿れば218号線からB1に入れるのだが、それだと人目につき易いのである。そこで一旦3号線バイパスを通って218号線と交叉する陸橋を通ってその先から市道に下り、ラブホテルB1の裏出入口から同ホテルに入っている。駐車する場所は大抵101号で、時には102号に駐車する。1面の町長の軽が駐車しているのは101号である。

左の一連の写真は5月1日の物である。1面の写真とは日付が1カ月以上後である。何故長期の調査取材になったのか、不倫の証明はラブホであれば1度で充分である。が、町長の不倫を実名で報道する以上確証がほしい。即ちはっきりした写真である。4月までは2人が落合う時間帯が午後7時前後が多く、日の入りは早い。落合う場所は真暗な駐車場である。根気強く待ち続けた結果、日足が長くなった5月の某日、2人の待合わせ時間が早かった事もあってC子が町長の車に乗り移る所が撮れたので報道に至った。

午後10時5分頃、シャッターが上って工藤町長の車が出て来たのを確認した。入庫から丁度3時間である。同ホテルは午後5時から同11時までが「フリータイム」で3、990円である。多分町長が4、000円支払ったと思うが、ひょっとして割り勘だったか。は冗談だが、工藤町長らは約10分後南熊本病院の駐車場に戻った。2、3分程してC子が軽を下り自分の車に移ると町長のダイハツテリオスは発進した。C子は少し間を取り2分後に発進、国道3号線に出て北上、国道218号線に入って山都町方面に向かったので、ここで調査を終えた次第である。



陰謀説もある
初回落札の議会否決
 二町一村の合併で山都町が誕生した際、将来の本庁舎は矢部町の活性化を図るとして矢部町役場の跡地にと合意していた。しかし、新庁舎は付帯施設も必要な事から周辺部の用地を買収し、町役場の敷地拡大を目指したのは当然であろう。所がこの用地買収域内に「暴力団関係者が居る」という事で、当時の担当課長であった工藤秀一氏は「用地買収に苦労した」と議会でも答弁している。町民の一部がこの関係者の土地を「時価より高く買ったのではないか」と疑念を持ち買収価格の開示を求めた。しかし、当時の甲斐利幸町長は「開示すると現在買収交渉中の相手方に影響を与える」として不開示にした。開示請求した町民は、これを不服として「上益城情報公開及び個人情報保護審査会」に異議申し立てを行ったが金額などの開示を認めなかった。又、買収に応じなかった個人について甲斐町長は強制収容を実施した。納得しなかった町民は提訴を行い、目下係争中の為、町は用地代を法務局に供託しているのが現状である。
 一方、町庁舎建設については平成24年11月2日指名競争入札を行い、準ゼネコンの佐藤工業鰍ニ地元大手業者のJVが落札した。設計金額14億円弱と云われるが、この入札の一カ月前、山都町は最低制限価格率を85%から90%に緩めたのである。この最低落札率の底上げを理由に町議会は12月議会で否決した。関係者は「予想していた業者ではない反町長派の地元業者のJVが落札した為否決となった」と語るが実態は不明である。町は年が明けた1月8日再入札を実施、中堅ゼネコンの東急建設が落札、2月15日臨時議会で可決され本契約となった。東急建設とは落札条件として地元業者を下請に使うとあるが、町民からは「どうせ甲斐前町長派の業者が入るのは間違いない」と語る。山都町が落札価格を公開しないので正確な落札価格は分からないが、初回落札価格と「殆ど変りがない」と見られており、初回落札業者を承認しなかった議会に疑惑の目が向けられている。
 女にだらしがない工藤町長は発注もだらしがない。



地元業者で充分
何故ゼネコン指名か
 山都町議会は初回落札JVについて最低価格の落札率5%アップ(約7千万円)の疑惑について糺し、これを否決した。それにも拘わらず同条件下で落札し、下請業者も明確でないままゼネコン1社の落札を認めたのか。議会は理由を町民に説明すべきではないか。たかが、と云っては失礼だが10〜20億円程度の箱物作りにゼネコンを持ってくる必要はない。県内のA1クラスを頭に地元2社程でJVを組むだけで立派に仕事は出来る。地元大手建設業者は「地方の仕事で15億程はゼネコンに殆ど旨味はない。発注者の町も準、大手と云わずゼネコンとの繋りは薄い筈だ」と語る。その裏には「両者を繋ぐ何者かが居る筈だ」と深読みしてくれた。町民の一人は「先の町長選の時、工藤秀一さんには一銭も金を使わせないと云っていた建設業者が居ました」と話す。数千万円を要したと云われる町長選の資金だが、工藤町長は全て自費で賄ったのであろうか。10社前後の建設業者が工藤氏を支援したと云われる先頃の町長選、今後町発注事業を町民は注視すべきであろう。政争が激しく、日頃からも相手を名指しで非難合戦が続いている山都町。今後も旧町村民の宥和は望むべくもない。こうして町勢は衰退していくのだが為政者にはそれが分かっていない。



規定破り続出
熊本市嘱託職員
 何れ詳報するが、熊本市が期間限定で職員を採用している非常勤職員(嘱託、臨時職員)の採用基準が、なし崩しになっているのをご存知であろうか。熊本市は正職員の補助者として長年臨時職員制度を維持して来た。しかし、雇用期間が短い為「せっかく仕事を覚えてもすぐ辞めていくので非効率」として三角市長の代に5年間の雇用期間を定めた嘱託制度を導入した。それは今でも変りがないが、嘱託で採用されたにも拘わらず、5年を過ぎても居座ろうとする輩が現われ、それを市職組が後押ししだしたのである。筆者の見分によると、嘱託に採用された者は「5年間心配なく働ける」と喜び、周囲も「わあ、嘱託になったのー羨ましいわ」と嫉妬混じりに歓迎していたと記憶している。所が人間は欲望の固りである。当初嘱託に採用され喜んでいた者が、5年を経て辞める時になると「このまま続けたい」と思っても不思議はない。

 この嘱託、臨時職員が又玉石混交で、きびきび働いて正職員以上の能力を発揮する者が居る一方で、物覚えが悪い、やる気がない連中も多い。正職員と違って採用基準も緩い事から「議員の知り合い」「市幹部の知人友人の子」などが多く採用されている。その嘱託職員達が組合移行を前提していると思われる「非常勤職員評議会」を昨年10月5日に結成した。この日、市役所14階で結成総会を開き、市職組の峯委員長らが「非常勤職員の待遇改善を目指そう」と挨拶した。これはおかしな事である。熊本市は云うに及ばず各自治体は市民の税金たる「経費の節減」の一端として正職員の採用を抑え、不足分を臨時職員で補うのが主旨ではなかったか。採用される側も「5年までの期間で、勤務時間はこれこれ、時給は幾ら」で納得して採用された筈だ。だが嘱託の多くが契約切れで退職していく中、10数人が期間を延長されて勤務しているのである。

 人事課は「政令市に移行した時期でもあり、数人は延長した」と認めている。だがこの中の40代の女嘱託は人事関係者と飲み歩いている姿が目撃されている。他の者も所謂「組合活動家」の延長が多い様だ。まだ組合結成に至っていないが、前述、評議会の結成に動き、評議会の幹事に就任しているMもその中の一人である。嘱託は採用後同一職場に居る事が多く、異動で着任した正職員より業務にも詳しい為職場で重宝される。するとバカな女は逆の上ぼせ上ってわが物顔に職場を闊歩するのである。まだあるが、次の機会に組合幹部らと嘱託の関係を暴露したい。



天皇陛下とスポーツ選手
 昨年秋の園遊会に招かれた国民的人気の体操選手、内村航平君がNHKのインタビューに答えて「天皇陛下が全員(出場した体操選手)を、失敗から成功など全部知っていたんで驚きました」と語っているテレビニュースを見てこちらが驚いた。オリンピックで金メダルに輝いた人物が敬語一つ使えないのである。文科省は来年度から小学生に英語教育を導入するらしいが、その前に国語教育に力を入れてはどうか。足許を固めるのが先である。



こちらはバカ丁寧
蔦屋書店のレジ係
 今年の春のこと。いつも通う蔦屋書店に行った。ここには毎週1、2回は訪れる。この日も週刊誌を買ってレジに行く。大柄な女店員に週刊誌を出し、蔦屋のTカードを渡した。受取った店員さん「失礼致します」と云ってそれを受取り「失礼します」と云ってカードを返した。次にお金を渡すと「失礼します」と云って受取った。

 ここで筆者が切れた。「あなたのその言葉遣いおかしいのではないの」と云うと即座に「申し訳ございません」と返す。本を売ってお金を貰う。何か失礼であろうか。全国展開している蔦屋はレジ係などに接客マニュアルを渡し、統一した教育を行っていると思うが、肝腎な「真心教育」を行っていないのではないか。前述の例は始めての対応だったが、他のレジ係は殆ど同じパターンの繰り返しである。週刊誌などをレジ台に置き、こちらは財布を出してその中からTカードを出す訳だが、週刊誌を手にすると、すぐ「Tカードをお持ちでしょうか」とくる。相手の動きを見て「この客は次に何をするか」が読めない。代金を出した段階で「カードは?」と云えばよいのである。千円札を置いてこちらは釣銭を待っているのに「千円からでいいでしょうか」と念を押す。筆者は知らん顔でそっぽを向く。筆者が意地悪か相手がアホか。



 菊陽町議甲斐栄治氏について第2弾をお届けする。10数年前の報道を何故本紙が蒸返すのか。目的は町議という公職にありながら、自分の過去を省みる事なく正義漢面をして他者を責める姿勢にある。又、町政をチェックする立場に立つ者としての過去の経歴は重要であるとの認識から甲斐町議の実態に迫るものである。本号では、本紙を名誉毀損で刑事告訴して甲斐氏が完敗した時報道した本紙を左に大きく掲げた。虫メガネを使えば読めると思う。

 当時中央女子高校で、絶大な権力を振るっていた甲斐栄治校長を退職に追い込んだ(と筆者は思っている)本紙の功績は、その後中央女子高校の多くの良識派教師達から聞かされた。記者冥利に尽きる(自惚れか)。本号では人格の根底をなす道徳欠落人間として「甲斐氏の教え子との不倫」を検証する。甲斐町議は自己の経歴の中で昭和42年熊本大学法文学部卒業。昭和42年熊本県立熊本商業高等学校教諭。昭和47年熊本中央女子高等学校教諭となっている。この経歴に間違いはない。昭和42年から同47年の間の空白を書かないのも自由である。この経歴をここで検証する。熊大法文学部英文学科を卒業した甲斐氏の初就職先は熊本県立熊本商業高等学校松b島b分b校bである。当時天草五橋はなく、三角港からの船便が唯一の交通機関であった。松島分校では英語を担当していたが、筆者が取材を始めたのは平成12年頃である。30数年前の甲斐教員が在職中の同僚、教え子を探し出すのには苦労したが、殆どを突き止めて取材した。その結果、甲斐氏は就任した翌年の昭和43年7月頃「教え子との関係が発覚して解雇された様だ」と教え子の男性複数が語った。当時の同僚教師も、この点について「ほぼ間違いないと思うが、当時日教組、高教組が強かったので自主退職処分になったとの噂もあった」と語る。事実確認の為、県教育委員会にも問い合わせたが、「古い話であり、記録は残っていない」との回答であった。

 裏付けを重ねた所、当時の妻(甲斐氏は熊大在学中民主青年同盟に加入、学生運動に熱中していてパンフレットなどの印刷で出入りしていた印刷所勤務の女性と知り合って結婚していた)の実父を探り当て話を聞く事が出来た。妻の実父は「あいつは学校を馘になったつですたい。娘がアルバムを見せてこの子(女子生徒)がそうだと私に話した。娘は離婚すると云ったが、子供も生れていたことだし甲斐の祖父がわざわざ矢部から出て来て頭を下げたので娘を説得して離婚を思いとどまらせたのです」と語った。結局、中央高校で又教え子に手を出した事が発覚した為最初の妻は甲斐氏と離婚、筆者が取材した時は東大阪市に居住していた。電話取材した筆者に元妻は「甲斐という言葉も聞きたくありませんので取材には応じかねます」と云って電話を切った。この時の取材で面白かったのは、かつての男子生徒が「ああ甲斐さんて云うのは助平先生の事でしょう。英語の先生でしたが、英語は余り教えずベトナム戦争の事をよく話すので面白かった」と語り、他の一人は「当時松島分校は甲斐先生ら4人が共産党先生、3人が右翼先生と呼ばれていました。私は甲斐先生から『赤旗』を10数通配達するように頼まれ、学校帰りに配達していた。ある日一部余ったので家に持って帰ったら、それを見た父からひどく怒られたので赤旗の配達をやめました」と話したのである。これらを報道した本紙を甲斐氏は名誉毀損で刑事告訴を行ったが、熊本地検は不起訴処分とした。という事は、本紙の報道が事実であった証しでもある。





熊本城坪井川園遊会
これで観光客を呼べるのか
 去る4月28日から始まった「第9回熊本城坪井川園遊会」に市民として納得しかねるので又嫌みを書かせて頂く。何も筆者はこれらの行事に「ケチ」を付けようと虎視眈々と狙っている訳ではない。美しいもの、楽しいものについては人一倍関心はある。徳島の阿波踊りは2回、高知のよさこい祭り、富山のおわら風の盆も観覧した。何れも主催者の意気込みと、出演者の心意気が肌身に感じた。おわら風の盆は、優雅な手足の動きに伝統が生きている事を実感するし、よさこい踊りは若さが弾けた。翻って熊本市の大園遊会は何がメインなのか。

 行事は市が補助して民間の実行委員会が主催しているらしいが、焦点が絞られていないのである。熊日によると「メーンの『道中踊り』」として「和服に身を包んだ日舞団体の会員ら約400人が長塀前などを練り歩いた」とリード。「初日は、城下町のにぎわいを再現した道中踊りの行列が中央区二の丸の城彩苑を出発。和服姿の踊り手や三味線、笛、太鼓のお囃子が肥後民謡を奏でながら、長塀前や熊本交通センター一帯を歩いた」とあるが「城下町のにぎわいを再現」とは何か、疑問を持つ。実行委員会の主張をそのまま記事にしたと思うが、掴み所のない表現である。長塀前を歩くという事は坪井川の流れを挟んで対岸の歩道から見ろという事だろうが、少し遠過ぎないか。「見てもらいたい」踊り手が哀れだ。この日だったかどうか憶えていないが、筆者は「YOSAKOI踊り」が見たくて二の丸に行ったが、20〜30人の踊り子らでは「チャチ」の感は否めない。阿波踊りは一人でも様になるが、よさこい踊りは数が物を云う。予算の都合もあると思うが、全てがこじんまりしているのである。帰途、坪井川沿いに歩いたので長塀前でよさこい踊りを踊っているのが見えた。多くて20人、少ないグループは10人未満の踊り手が懸命に踊っていたが、観る筆者に何の感動もなかった。

 3日〜6日は「坪井川浪漫舟めぐり」が催されたらしいが坪井川で舟遊びを計画する事自体に無理がある。祭りの数日前長塀前の歩道を通ったが、この時坪井川の長塀側の川底の砂地が出ていた。祭り当日は下流を塞き止めて増水を図ったのであろうが、両岸の石垣やコンクリート壁、それも茶色に汚れたままである。心が癒されたり楽しめる事が出来たのであろうか。数年前からこの坪井川を使って春日橋あたりから熊本城まで観光客を運びたいという案が浮上している様だ。堰を作るだけで相当な資金が必要らしい。仮に堰を作って水面が上がったとして、舟も新しく作って浮かべる。動力舟らしい。さて舟客になってみよう。舟は舟着場からゆっくりと走り出す。両岸はコンクリート壁と建物の裏側が見えるだけだ。時折植込みなどの緑が目に入る位か。終点の熊本城が近付いてやっと空が拡がり、川幅も広くなった。風情は全く感じないまま終点に着いて私は下りた。となるのではないか。坪井川は生活排水がまだ流入しているのではないか。上流からの水流も近年少なくなっている。この川を生かして「観光客誘致」は無理があるのではないかと思う。

 桜の頃、彦根城を訪れた。周囲の堀には豊かに水が湛えられて、遊覧船が一隻客を乗せて走っていたが乗客は数人であった。熊本に観光客を呼ぶのは、経済の浮上にとっても大切な事であるが、関東などでの知名度は阿蘇と熊本城位のものである。「行きたくなる観光地」には程遠い様だ。
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