熊本県民新聞 WEB版
本紙の信条

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熊本市東区八反田1丁目14-8

発行者:福島 宏

電話:096-234-8890
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 解体業界の大手(株)前田産業がぐんぐん業績を伸ばしている。東京進出も果たし港区内に自社ビルも建てたと聞く。この勢いの背景には大手ゼネコンを抱き込んでいるからという。同業で裏事情に詳しい人物は「資金が豊富で実弾をどんどん打つ。公務員だと贈収賄罪に引っ掛かるが、民間同士だとこれがない。遣りたい放題ですよ」と語る。

 前にも書いたが、今回の震災復旧は建築業者も解体に参入している。解体工事業組合(小原英二理事長)は熊本市が「解体家屋」と判定した物件の提出があると協会が配分する。協会が配分すると云えば聞こえはよいが協会職員の70%以上が前田産業からの出向組である。「主要な配分は全て前田産業からの出向幹部が行っていて、私達でも実態が分からない」とは某関係者。解体協会は20社が加入(その後若干増加)しているが、内12~13社が前田産業派と云われる。これらの業者には“ほどほど”に美味しい仕事が回るという。理事にも選ばれる。残りの業者もこの非常時故仕事こそ充分に配分されるが、「仕事がやりにくい地形の所や、搬出が難しい場所が多く来る」と不満を唱える業者も居る。又、それらの業者が「月に何件の仕事が来て、どんな配分を行っているか開示してくれと申込んでも全く反応がない」と透明性に欠ける協会運営に不満を漏す。協会は一般社団法人であり、当然定款を備えている訳で会員企業が「定款を見せてくれ」と云っても「コピーを渡す必要はない。見たければ読みに来い」と強気の発言を繰り返すばかりという。

 前田産業とタッグを組んでいるのが星山商店だが、両社とも能力以上に仕事を取っているので人材集めで無理をしており、県外からの人材派遣に頼っている。来るのが殆ど素人の上、それまで力仕事をしていない者も多く事故続発の一因と云われている。星山商店の作業現場で「17年11月頃解体現場で建物の間仕切が倒壊して死亡事故が起きている」と同業者は語る。協会理事長の小原英二氏(大東商事社長も)「会社の実力に合わない大量受注をしており、御手盛りではないか」の声もある(同社の八代市の現場の事故既報済)。

 この様に「前田グループ」とも云える“ゴマ摺り”業者で協会が動かされている実態は、行政側も把握しているが、鼻薬が利いているのか通り一遍の通達を出すに留まっているのが実情だ。震災を喰い物にしたこの業界、唾棄すべき存在である。


熊本県解体工事業協会の出先事務所のドア(暴力追放のポスターが空しい)



理事会に諮らず投資
社団法人法に違反か
 小紙の以前の記事を読んだという協会役員の内部告発である。

 内容は「前田産業の木村会長が協会の資金を株式や投資信託に投資している」と云うもので、筆者が「理事会の承認を得ているのか」と聞くと「理事会の承認は得ていない。理事会でこの話は出た事がないし、最近理事会も開かれていない」と云う。筆者の知識では「一般社団、一般財団などが投資する場合は理事会の承認を得る事」となっていたと思うが。「理事でも理事長でもない木村氏が協会の資金を投資する事は出来ない筈」と云うと「今の小原理事長は飾りで前田、星山に頭は上がりませんよ」と云う。「投資した額、投資先なども木村氏が独断でやっているので協会員でも知らない会社が多い様です」とも語っていた。

 若しこの告発が事実であれば、木村氏は民法上の違法行為を行っていると云えるのではないか。法人格を持つ団体の投資には理事会の承認が必要である。自治体からの公費解体を受託し、その案件の配分でたっぷり手数料をピンハネして資金豊富になった協会が、更に金儲けに走る姿は見苦しい。協会の管理、指導不足の為、現場業者が手抜きをして解体した廃棄物を現地で埋め込み、運搬料は頂く不正が行われている。



今後盛んになる家屋建設
早くも無責任業者横行
 熊本市などが発注した震災家屋の公費解体、多少の積み残しはあるものの、3月の年度末で終了する様だ。民間住宅の建築は震災直後から始まっているが、宅地の更地化が進んだ今後は家の新築ブームが到来するだろう。否ブームは「震災直後から始まっている」という業者も居る。地元の有名建築会社は昨年の時点で既に「3年待ち」という。こうした業界にあって福岡に本社をもつ「Tホーム」の営業姿勢に同業からも批判の声が挙がっている。

 Tホームはテレビなどの派手な宣伝で名前が知られた建築業者だ。宣伝では近代建築を謳うが、その実態は“旧態依然”のシステムから一歩も出ていない。Tホームを良く知る人物は「あの会社は以前から営業に力を入れており、営業が取って来た仕事は建主の希望を入れて設計される。同社の仕事はそこまでで、あとは契約を結んでいる“棟梁”に丸投げだ。棟梁はその都度大工、左官などを集めて家を造り完成したら職人は解散していた」と話す。

 写真の家はTホームが建てた家である。関係者によると「2月に契約、3月着工7月引渡し」となっていたらしい。3月初旬に基礎工事が行われたのは確かだが、それから柱など軸組が行われる迄2カ月近くかかった。屋根工事に2週間位空き、忘れた頃窓枠を取付け、暫くして内装屋が入り時間を置いて台所の水回り、電気工事とばらばらに業者が来た。結局出来上がったのが11月末頃で着工してから8カ月を要している。要は客を取る為短目に契約、解約出来ない様に基礎工事だけは早目に着工する訳で、これも一種の悪徳業者と云えるだろう。


Tホームが8カ月かけて建てた住宅



 熊本にとっては未曾有とも云える大地震から1年8カ月、震災復興の基礎となる倒壊家屋の解体が進んでいる。平時から「解体業者は汚い」との風説があったが、今回の震災で計らずも実態が裏付けされた形だ。社団法人であるにも拘わらず事業内容は不透明で、一部の大手業者が思いのままに業界を牛耳っているのが事情だ。数年前解体業者が前田産業の独占的受注に不満を持ち、熊本市役所の関係部局に陳情を行った。

  が、担当者の云い分は「民間同士の事だから業界内で話し合ってくれ。行政から指導は出来ない」と冷たくあしらわれたという。中小業者は「せめて公共工事では仕事の配分をうまくやって、業界を育てるのも役所の務めではないか」と云っても埒が明かなかったと云う。これは建設業界も同様で、県など自治体が大型工事の殆どをゼネコン頼みで、地場業者が出来る仕事でも県外のゼネコンに投げる。従って技術者が育たない、企業は縮小すると、負の循環に陥るのである。解体業で自浄作用が働かないのは、「余りにも前田産業が肥大したから」の声も聞く。

 大手ゼネコンと交流を持ち、時には汚れ役も買って出るという。自治体の関係部局にルートを作り、県警との癒着も取沙汰される。有力暴力団とも親交がある等、これだけ揃っていれば前田会長、木村社長に“楯突く”同業は皆無と云える。一強の余力を弱小業者に零せば業界全体が活性化すると思うのだが…。



 平成29年は柳原白蓮の没後50年である。伯爵の子として生まれたものの“政略結婚”を強いられ、人生の前半は心の安まる暇はなかった。白蓮36歳の時労農党幹部で、雑誌「解放」の主筆宮崎龍介27歳(宮崎滔天の長男)が取材で白蓮が住む別府「赤銅御殿」を訪れた。2日間に亘って取材に応じた白蓮は、この若い編集者に心を奪われ龍介が帰京の際は列車に同乗、小倉駅まで見送ったと伝えられている。その後2人は深く結ばれ、大正10年10月の「東京朝日新聞」に夫伝右衛門への「公開絶縁状」が掲載され世間を騒然とさせる事になる。

 柳原白蓮、本名宮崎燁子は明治18年10月15日、伯爵柳原前光の次女として東京麻布で出生した。父前光は大名上りの伯爵。戊辰戦争の折、東海道鎮撫総督橋本実梁の下、同副総督に就き討幕に貢献、明治政権下では外交官を務め“華族令の制定”にも係わった逸材とされる。実母は奥津りょう(前光の妾)は旗本新見正興の三女として生まれたが、父が維新後早世した事から家は没落、妾の地位に甘んじた。「燁子は生後間もなく前光の正妻初子に引き取られ柳原家の次女として入籍された。当時の慣習として品川の種物問屋に里子に出された。乳母の増山くにの愛情を受けて成長、学齢に達した6歳の時、柳原家に戻った」(以上ウィキペディアより)。

 9歳の時子爵北小路家に養女として入籍するが、これは当主随光が女中に生ませた資武との結婚を前提としたものであった。養父随光は和歌の心得があった所から燁子に和歌の手解きを行った事から燁子は和歌の道に入る事になる。13歳の時華族女学校(現学習院)に入学したが、15歳の時養父母に説得されて養子の資武と結婚して女学校も辞めた。翌年長男功光を出産したが、横暴な資武との生活に耐えられず父前光に婚姻の解消を申し出たので柳原家と北小路家が交渉、「長男功光を北小路家に残すこと」を条件に資武との離婚が成立した。柳原家に戻ったものの華族の家柄としては“出戻り”を実家に受け入れる訳にもいかず、義母初子の隠居所が居住先となった。幽閉同様の中、隠遁生活を3年余送ったが、大きな救いは異母姉信子が持参した和歌や古典の書籍の類であった。その後、自分の意志と関係なく両親が婚姻の話を進めている事を知り、品川の乳母を頼って家を飛び出したが、頼みの乳母はその前年に亡くなっていた。

 行き場を失った燁子は、異母姉信子の口利きで、前光亡き後家督を継いでいた異母兄義光の家に戻る事が出来た。女学校を中退した燁子は向学の念抑え難く、義光夫妻に懇願した結果、23歳の時東洋英和女学校に編入学が許された。生活の場は義光家から寄宿舎に移ったが、燁子にとっては初めて自由の身となり、その喜びは一入であったと思われる。同じ頃信子の推めで佐々木信綱主宰の短歌会竹柏会に入会、同会の歌誌「心の花」に投稿するようになる。明治43年3月東洋英和女学校を卒業、その年の11月、上野精養軒で伊藤伝右衛門と見合いを行う事になる。燁子には「単なる食事会」として知らされていた。その後、仲人役の得能通要(子爵と云われるが未確認)と、伝右衛門の取引先の三菱鉱業門司支店長の髙田正久が積極的に動き、話は急速に進んでいった。


大正5年頃の白蓮ウィキペディアから



伊藤家に嫁し筑豊へ
 燁子と伝右衛門との縁談は柳原家が強く望んでいたと云われ、燁子は何も知らされないまま話は進んだ。見合いから僅か三カ月後の明治44年2月、燁子は伝右衛門と挙式、伊藤家に入った。この事実を知った世間は「成金富豪が爵位を狙って大金を払い伯爵の娘を娶った」と語り合った。柳原伊藤両家ともこれを否定したが、この時代“華族の斜陽化”が始まっており、柳原義光は貴族院議員の選挙資金にも苦労していた様である。他方伝右衛門は炭鉱王(大正鉱業社長)として財を成し、後欲しいのは名誉であり爵位であった。慈善事業等に多額の寄付を行ったりすれば“男爵”の位階には届く余地はあったが、手っ取り早く伯爵家との血縁関係を求めたのかもしれない。

 伝右衛門が住む福岡県嘉穂郡大谷村幸袋(現飯塚市幸袋)の大邸宅に入った燁子は、ここに伝右衛門が妾に生ませた子供や養嗣子、伝右衛門の父が妾に生ませた子供など4人に加え従弟などが居る事を知る。仲介人達から「伝右衛門には子供は居ない」と聞かされていた燁子には一大ショックであった。加えて妾を女中頭に据えていた。こうした環境であったが、周囲が燁子を「伯爵家の令嬢」として畏敬の念を抱いていた為、正妻として采配を振るう事が出来た。伝右衛門は福岡市天神にも別邸を構えていたので燁子はこの別邸に住み、福岡の社交界と交流した。柳原家が単なる伯爵家ではなく、父前光の叔母愛子(なるこ)が大正天皇の生母であった事から皇室とも縁続きとして社交界では一目置かれる存在であったらしい。当時の新聞界では燁子を「筑豊の女王」として持ち上げたが燁子の心の澱は晴れる事はなかった。

 燁子は伝右衛門との間に子供を望んだが、伝右衛門は女遊びが過ぎて睾丸を除去していた。実子が居なければ血族が多数居る伊藤家に自分の将来を託すものがない。柳原家も代替わりしていて自分を受け入れられる環境にはなかった。これらの不安、伝右衛門への鬱憤を晴らす思いもあってか、燁子は歌を詠んでは「心の花」に投稿した。師の佐々木信綱は歌の内容が生々しく直截すぎる為雅号の使用を推め、ここに「白蓮」が誕生したのである。



伊藤家別邸
別府・赤銅御殿に
 燁子が雅号を「白蓮」としたのは、柳原家の家宗が日蓮宗であった事から「日蓮」に因んで使ったとされるが、事実かどうかは定かではない。雅号を初めて使ったのは歌誌「心の花」明治44年6月号からで、燁子=白蓮と知っていたのは佐々木信綱と心の花の同人に限られていたという。大正4年3月、心の花叢書として初の歌集『踏絵』を自費出版、挿絵が当時の人気画家竹久夢二であった事からマスコミが採り上げ、歌人を始め上流社会で話題となった。

 しかし内容については「冷やかに枯木のごとき偽りを人の道としいふべしやなほ」や「やはらかき湯気に身を置く我もよしこよひおぼろの月影もよし」など私情の域を超えられず文芸界には冷めた見方が多かった様である。翌大正5年3月別府青山に建築中であった伊藤別邸(銅を多用していた所から後に赤銅御殿と呼ばれる)が完成、燁子は活動の場をここに移した。9棟から成る別邸だが、中でも燁子の為に特注したとされる「白蓮の間」(2階6畳、4.5畳)の造りは豪華であった。長押なげしに別府特産の竹材が用いられ、茶室風な造りになっていた。

 別府温泉の別荘地という地の利もあって多くの文化人が訪れ、別府の地に文化の花を咲かせた。その中には初歌集の挿絵を描いた竹久夢二、師の佐々木信綱、その門下生で既に歌人として名を成していた九条武子らが居た。「ここにして友と遊びし庭の木に物いひかけてはるけき思ひ」来訪した九条武子を想って詠んだものである。武子は公爵九条良致の妻だが、夫に秘めた恋もあり、後に「白蓮事件」を起こした後も燁子のよき理解者であり、2人の友情は生涯途切れることはなかった。



白蓮・龍介の出会い
 宮崎龍介。明治25年11月2日生、中国孫文の第3革命を支援した事で有名な父滔天と、自由民権運動家前田案山子の娘槌子を母に持つ。龍介も若い頃から社会運動に触れる機会が多く、東大法科在学中に同じ思想を持った石渡春雄、赤松克磨らと「東大新人会」を結成、無産者解放運動に挺身した。その背後には帝大(東大)教授の民本主義者吉野作造の指導があった。吉野は熊本バンドに参加した海老名弾正(後に同志社大総長)の門下生で熱心なクリスチャンでもあった。龍介も在学中に新人会の石渡に誘われ受洗。キリスト教徒となったのも自然の流れであろう。

 新人会は、師の吉野作造を顧問に据え、吉野の人脈からクリスチャンで関西を中心に社会運動を展開していた賀川豊彦、無政府主義者大杉栄と交流を持つ。この社会主義色の強い「解放」に、身分も思想も真逆の白蓮が大正8年12月戯曲『指(し)鬘(まん)外(げ)道(どう)』を発表する。発行元は大鐙閣で、この年の6月に創刊したばかりであり、何故戯曲を白蓮が発表したのかは不明である。この『指鬘外道』が好評であった為大鐙閣は単行本化を計画、編集主幹の宮崎龍介を交渉の為別府に赴かせた。大正9年1月の事で、この時龍介はまだ東大生であった(夏頃東大を卒業弁護士となる)。龍介は2泊して別府を離れるが、2人の間は赤い糸で確り結ばれた。その後白蓮が伝右衛門との離縁状を公表、世間の目から逃れた3年間の間に龍介との間に交わした手紙は700通を超えたと伝えられている。白蓮と龍介の仲は周囲に洩れ別府を訪れた1年後の大正10年1月龍介は「華族出身のブルジョア夫人との恋愛は主義に反する」として「解放」編集局から解任され、「東大新人会」からも除名された。

 しかし弁護士資格を取得していた龍介は思想上の先輩で社会民衆党幹部を務めていた片山哲(戦後片山内閣を組閣)が所属する中央法律事務所で働く事になる。他方白蓮は、大正8年12月に『指鬘外道』を発表した同じ年の3月に詩集『几帳のかげ』歌集『幻の華』を刊行している。恐らく最初の歌集を大正4年に出して以後書き溜めていたものと思われる。ここに掲げている『幻の華』は筆者が昭和62年に中古書店から購入したものだが、「大正十年二月二十二日第十三版」となっている。初版から13版まで僅か1年10カ月は当時としては異例の売れ行きであった。著者伊藤燁子と本名を使用、新潮社刊である。その後版を重ねたかどうかは知らないが、13版の時伝右衛門への公開絶縁状騒ぎが起きた事を思えば以後も相当数が刷られたものと思われる。

 京都に行く伝右衛門を東京駅で見送った燁子は、事前に龍介と打ち合わせていたと思われる中野在住の山本弁護士の家に身を隠した。このスキャンダルで貴族院議員であった義光氏は議員辞職に至るが、一説では右翼団体黒竜会の抗議も影響したと云われる。燁子が離縁を願って絶縁状を公表したのは同年8月龍介の子を身籠もった為と云われ、龍介が朝日新聞記者となっていた早川や新人会の赤松ら同志と綿密に計画を練った公表であった。山本弁護士らは伊藤家と柳原家の間に立って離婚を成立させようとしたが、伝右衛門は燁子が新聞紙上に公表した事に怒り心頭に発し話は仲々進まなかった。この間燁子は柳原家に居を移し、ここで長男香織を出産した。まだ姦通罪があった時代、燁子は香織を残して京都に身を潜める事になる。従って龍介と逢瀬もままならなかったが翌大正11年には伝右衛門との間で離婚話しが纏まったとされ晴れて自由の身となっている。



 大正10年10月23日付「東京朝日新聞」は第5面トップで白蓮が夫伝右衛門に宛てた「公開絶縁状」について5段抜きの大見出しと2人の写真を掲せた。大見出しは「同棲十年の良人を捨てゝ白蓮女史情人の許に走る」を2行で、脇見出しも2行で「東京駅に伝右衛門氏を見送り其儘姿を晦ます」として燁子の最初の結婚の失敗、当時詠んだ短歌を紹介しながら燁子寄りの記事で埋められていた。同日付夕刊で絶縁状の全文を掲載し世間を騒然とさせた。この公開絶縁状は先述の通り、龍介が東大時代に培った無産者解放運動の同志らの支援によるもので、朝日新聞記者の早川二郎の存在が大きかった。この燁子の一方的宣言に対し伝右衛門は朝日のライバル「大阪毎日新聞」に4回に亘って反論を載せた。

 「絶縁状を読みて叛逆の妻に与ふ」と題した内容は「お前が俺に送ったといふ絶縁状はまだ手にせぬが、もし新聞に出た通りのものであったら随分思ひ切って侮辱したものだ中略」。その後に結婚に至った思いが綴られている。見合後の出来事を「話は追って進める事にして九州へ帰った。幸袋(自宅の在る地名)に着かぬ前に初めての橋渡しであった得能さんから電報で、話がまとまったから直ぐ式を挙げたいと云ってきた。まるで狐を馬に乗せたやうな気がした。それほどお前との結婚は何でもかんでも押し付け式にまとめやうとしたものがあった。断られたら困ると云ふ懸念があったのだ」「東京の某新聞では伊藤は金で権力を買うなど書いた。俺は嫌気して破談を申し込んだが、仲に入った人達に宥められて結婚した」中略。「お前と云ふ異分子を除き去った伊藤家は今後円満に一家団欒の実を上げ得ると思うと、心易さを感じている」。後略。伝右衛門のこの言が真実を語っているのであれば伝右衛門は仲人口の被害者であろう。絶縁状公開は、富豪(資本家)に対する社会主義者の闘争ともとられる訳で、燁子が望まなかったとしても階級闘争の片棒を担いだ事になる。

 この1年後2人の離婚が成立(年月日不祥)燁子は華族の身分を失い一平民となった。大正12年9月関東大震災が発生、柳原家に預けられていた長男香織が、京都で隠遁生活を送っていた燁子の許に届けられた。翌年燁子は香織とともに上京、目白の宮崎家に入った。その家は宮崎滔天が住んでいたが、2年前に逝去後、妻槌子と結核で倒れた龍介が住んでいる家であった。晴れて龍介夫人となった燁子であるが、龍介に収入はなく、滔天は莫大な借金があった。一家の生活は燁子の一身に掛ったが、燁子は色紙、短冊を売り小説を書き歌集を出して凌いだ。




困窮を極めた結婚生活
 長男香織の養育は姑の槌子に委ね燁子は生活費を稼ぐ事に集中した。翌大正14年9月長女蕗苳が生まれ、龍介の肺結核も快方に向かった。昭和3年の衆院議員選挙に龍介は社会民衆党に推され出馬するが結核が再発して断念した。その後も社会解放運動を続ける龍介とともに、燁子は自身の結社「ことたま」を創立、門下生と歌誌「ことたま」を発行して生活は安定していく。昭和19年12月学徒出陣で長男香織は陸軍に入隊、鹿児島串木野部隊に配属となったが、終戦4日前に米軍機の爆撃で戦死した。この香織の死は、その後の燁子に大きく影響する事になる。昭和21年5月にNHKラジオで子供の死の悲しみと平和を訴える気持を語った事をきっかけに、『悲母の会』を結成し、熱心な平和運動家として支部設立のため全国を行脚した。中略。会は外国とも連携して『国際悲母の会』となり、さらに世界連邦運動婦人部へ発展させた(以上ウィキペディアから)。

 晩年の燁子は緑内障を患いながらも作歌など文筆活動に励んでいたが、昭和42年2月22日龍介、蕗苳らに看取られて病死した。享年81。葬儀委員長片山哲。戒名「雅号妙光院心華白蓮大姉」。菩提寺は、東京相模、真言宗高野山派石老山顕鏡寺。同墓所には長男香織、戒名「義光院清秀香織居士」も眠っている。龍介はその後も弁護士活動の傍、アジアの平和運動を続けていたが、昭和46年1月26日、燁子が亡くなった東京・西池袋2丁目の自宅で心筋梗塞の為急逝した。享年78。戒名「石老院大観龍光居士」燁子と同じ墓に入っている。



 熊本県警北警察署内に“記者専用室”があるのを知って驚いた。県内のメディア各社は中央区に集中している。北署までタクシーで10~15分もあれば行けるのではないか。繁華街を抱える北署だが、記者が常駐する室が必要とは思えない。メディアの傲りではないかと筆者は見る。

 数年前北署員と名乗る人物から電話があり「北署内に新聞記者室があるのを知っているか」と云われたので「知らない」と答えたら場所を教えてくれた。次に行った時その場所を確認、中に誰か居るかとドアを開けたが、誰も居なかった。で、室内には入らず出入口から室内を撮った。ここに掲げているのが室内とドア、その左に貼られている「記者室」と書かれたプレートである。室内は見ての通りで、写真には写っていないが、左側に机があり、その上に小型テレビがある。テーブルの上に見えるのはテレビのリモコンであろう。筆者がこの記者室の存在に疑問を持つのは、通報者が云った「何故うちの署に記者室が必要か」と同意見だからだ。県警本部内には記者クラブがあり、立派な1室が与えられている。市内3署で一番署員が多く、事件・事故が多いのも北署である。しかし、リードにも書いたがメディア各社は中央区に集中している。加えて俗に云う“察回り”の記者が居るではないか。北署に“固定の室”など持つ必要はないだろう。
 記者室の存在を知った後、当時の幹部に「いつ頃からあるのか、記者室は必要か」と聞いた事がある。幹部氏曰く「建った時からか、途中から使用しだしたのか誰も知らないんじゃないか。必要性の有無については個人的には不用と思う」と語った。所で記者室の場所である。北署正面出入口を入ると右側がロビー、左側に交通課の許認可申請用のカウンターとなっている。そのまま進むと廊下になっているが、その左側に幅7、80センチの出入口があり、そこから数メートル入った突き当りが記者室である。報道機関と雖もNHKを除いて株式会社という民間企業である。公共機関の一部を無償で占有する権利はない筈。早急に自主退去して頂きたい。又、県警に於ても善処される様希望する。現状を容認する場合は、その必要性、メリットを説明頂きたい。尚、いつの頃からか「記者室」のプレートは外されている。



前田産業発砲・大成火炎瓶投擲
合同捜査本部年度末解散か
 桜町地区再開発で、解体作業を請け負った(株)前田産業の現場事務所に拳銃弾が打ち込まれた。あの日から早くも1年半が経った。県警は熊本北署内に刑事部長を本部長とする合同捜査本部を設け、必死に犯人を追った。小紙は当初からこの事件について「捜査は難航する」と書いた。この事件の半年前には再開発の建設を受注した大成建設(株)熊本支店と、現場にささやかな火炎瓶が投げられた。

 何れの事件も利害が絡んだ事件であるのは想像に難くない。前にも書いたが、捜査の一環として毎晩2組の捜査員が現場周辺に張り込んでいる。現在もそれは続いていると聞いたので県警関係者に「無駄ではないか。連続放火をする愉快犯と違うので同じ事は起きないと思う」と語った所「確かに4人取られるのは人手不足の折痛いが犯人検挙に至らずとも抑止力にはなっている」と答えられたのを覚えている。で、筆者の今後の見通しだが、捜査本部長は3月で定年退職を迎え、他の捜査員の異動もあるだろう。この“どさくさ”に紛れて「ひっそり」と捜査本部の解散もあり得ると見る。元々乗り気のない事件と聞いていたので、こんな邪推もしたくなる。

 関係者に云わせると「被害者である前田が協力をしない、被害意識も薄い」ので捜査が進まないと、云う事らしい。県警2課の一部悪徳刑事と前田産業との親密振りは以前にも書いた。主に警部補らの名前が挙がっているが、警視クラスの名前も時折聞く。勿論県警OBもだ。OBは顧問という名の肩書きで、出勤する事なく毎月相当額が支給されていると聞いた。暴力団幹部は「俺達が取っていた分を今は警察が取っている」。捜査継続という名のお宮入りか。



熊本市役所10階火災
一件落着・捜査打切り
 小紙29年11月号1面(左参照)で特報と報じた熊本市役所10階「健康福祉政策課」が火元と見られる火災。小紙は複数の情報ルートに加え、熊本日日新聞の余りにも早い市消防局発表の「出火原因」報道に反発しての特集記事であった。火災後は素直に熊日の記事を受入れていた。しかし市役所内から漏れてくる情報や、筆者の感覚から「あの記事(熊日)はおかしい」と思う様になり会う人毎に筆者の見解を聞いたが、誰一人異を唱えなかった。決め手は「うちの鑑識はまだ結論を出していない。放火も含めて捜査している」の一言であった。早速熊日報道の写真と記事を引用し、熊日を批判し、小紙の見解を記事にしたのである。発行後暫くして県警関係者から「もううち(県警)は動いていませんよ」と暗に放火説を否定された。一件落着である。それでも筆者には“摩訶不思議”。出火説を持ち続けている。
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