高校球児の華、夏の甲子園大会連覇を果たした駒大苫小牧高校だが、優勝の陰には同野球部長の嗜虐的暴力行為が隠蔽されていた。
今夏の大会は強豪の明徳義塾が野球部員の暴力、喫煙問題で出場を辞退。終わってみれば明徳と同時進行の形で野球部長が部員に暴力を振い、その事実を隠し続けて大会に出場し優勝旗を手にした駒大苫小牧。
この二校を比べると部員の不祥事が外部に洩れた時点で出場辞退した明徳の方が潔いのではないか。
野球部長の暴力行為を知りながら学校長以下全職員が隠蔽し続けた駒大苫小牧の方が見方次第では悪質である。
しかし各メディアは駒大苫小牧を「部長個人の暴力行為」明徳は「野球部員の不祥事」と位置付け高野連の駒大苫小牧高校に対する寛大な処分を是とした。
「高野連の審議委員会は内規ではなく、過去の事例に照らし合わせて、処分内容を検討していく。当該部長の処分も、こうした前例に倣ったもので優勝校だからという『色眼鏡』はなかった」(熊日8月28日)とあるが、この旧弊的思考の発想こそ「時代遅れ」と云いたい。
PTA役員を1回でもした経験のあるひとは分かると思うが、何か新しい行事を考えても「前例がないから」と云ってつぶされる。
典型的なお役所仕事の受け継ぎと全く同じである。
現在の裁判制度にしても「判例」に拘わらない新しい視点で判決が下されでしているではないか。高野連は、駒大苫小牧高校の優勝は取り消すべきであった。
「部員に罪はない」というが、これまで喫煙、異性不純交遊、暴力行為で出場辞退(停止)処分を受けた高校は、部員全員が不祥事に加わっていたのであろうか。そんな事は先ずあり得ない。一部の部員の不祥事で全員が罰せられた事になる。
所謂「連帯責任」であろう。
ならば、今回も野球部長の行為は監督の責任であり校長の責任でもある。野球部の中に学校があるのではない。学校の中に野球部があるのである。
しかも、「学校包みで隠蔽」を図っていた悪質さを何ら考慮に入れていない。
高校野球のあり方、高野連の組織を考え直すいい機会と思うが各メディアを見る限り「そんな説」は見当たらなかった。
これらの原因に「高校球児の純粋さ」という誤解がある。
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