熊本県民新聞 WEB版
本紙の信条

トップページ
コラム
バックナンバー


■ 発 行 所 ■
〒861-8034
熊本市東区八反田1丁目14-8

発行者:福島 宏

電話:096-234-8890
FAX:096-234-9883


*
 平成6年4月に呱呱の声を挙げた小紙が早くも22周年を迎える事が出来た。創刊号に於ける熊本日日新聞の写真、記事を無断転用した恥部も敢て公表した。22年間の成長を比べて頂くとともに「熊日あっての創刊」に感謝の意を表わしたい思いを込めたものである。

 本号で小紙は創刊22周年を迎えた。20年を節目の年として廃刊しようとも考えていたのだが、打診した誰もが「まだ続けてほしい、正義の新聞が無くなるじゃないか」と同じ様な言葉で存続する様に答が返った。皆さん固い人達だったので満更お世辞ではないと解釈して今日迄続け22年を迎える事が出来た。普段よく云われるのは「福島さん県民新聞は後継者は居るか」である。答は「残念ながら居ない」である。全国紙は勿論地方紙でもその新聞社名入りの名刺を出せば新人であっても取材に応じてもらえる。が、小紙の様な情報紙はその様な訳にはいかない。情報が寄せられるのも、取材に応じてもらえるのも筆者個人との信頼関係だけである。その信頼関係は20数年前、熊日報道で知った熊本市役所の昼窓手当の不当を監査請求した事から始まる。一般の企業(銀行、百貨店等)は昼休みも人員のローテーションで通常通りの業務を行っている。熊本市役所も、窓口業務に就いた者は午後1時から2時迄は昼休みがとれるのである。それに加えて昼窓手当と称して千円余を付けるのはおかしいとして筆者は監査請求を行った。しかし、監査結果は「正当」であったので住民訴訟を行った。一審勝訴、二審敗訴、最高裁で逆転勝訴となり、全国百数十の自治体に影響が及んだ。判決結果はNHKを始めとするテレビ、新聞は読売が一面トップ、他紙も大々的に報道した。民事裁判は一般的に私利の黒白をつける為に提訴されるが、この“昼窓手当”裁判は筆者の公憤以外になく、この行為が筆者を正義漢として市民に評価されたらしい(創刊号3面「監査委員は市長の犬か」に詳報)。「監査請求した会社員」は筆者自身である。

 創刊の動機は、これまでも書いて来たが、「自分の考え、意見の発表の場がない」に集約される。新聞各社は読者の声欄を設けているが、朝日に投稿の場合は朝日のカラーに合わせ、熊日の場合も熊日の意に添い、且、建設的でなければならない。その事を理解していたので筆者の投稿が没になる事は殆どなかった。だが掲載されるには過激な言葉遣いは出来ない。その一例として熊大名誉教授で火山学の泰斗松本唯一氏が居た。いつも義憤に燃えている松本氏だが、ある日筆者に「今日熊日の編集局長の所に怒鳴り込んで来た。私が何回投書しても載せんのですよ」と云う。筆者は松本教授の性格を知っているので「先生、いつも通りの云い分を書いたんでしょう、それじゃあ掲載はされませんよ、少し柔らかに書かないと載りません」と話した事がある。松本教授は当時80歳を超えていたが、心は幼児の如く純粋であった。それ故自分が感じたままを投稿していたのである。この様に、一般市民は自由に己の考えを発表する場は無かった。ならば自分で発行するしかないと結論したのである。

 創刊時の気持ちは「駄目元でやるだけやってみよう」であった。2号分迄の資料はあった(熊日を始めとするスクラップや筆者の知人からの裏情報など)、資金も2、3回位は何とか捻出出来ると踏んでいた。創刊号は同封した通り、当時我が物顔で熊本市に君臨していた田尻靖幹市長を採り上げた。写真4件、記事の一部は熊日から転載したが、それ以外は筆者の周辺から入手していた情報と思うが、正確な情報源は誰であったか思い出せない。今回改めて読んでも筆者自身「よくこれだけの情報を集めたな」と思って感心している。
出来上がった創刊号は金融業界、建設業界など、購読して頂けそうな企業に別刷の「創刊号を進呈致します。よろしかったら御購読をお願いします」の紙片を同封して送付すると共に、熊本市役所内に配付した。反響は大きかった。熊本市役所の中堅幹部の知人数人から購読料が振り込まれ、新たな情報が寄せられた。その情報が創刊2号の「田尻市政の罪と罰 PART2」に繋がり、以降も発行を継続する事が出来たのである。



熊本日日新聞の写真・記事
無断引用で厳しい抗議文
 22年前に熊本県民新聞は誕生した。人間で云えば22歳の元気盛りだが、書き手が後期高齢に突入しているので紙面の輝きは薄れているのではないかと案じている。ま、暫くは頭脳、体力とも現状維持が出来そうなので続けたい。以下の記事は小紙の恥を晒す物だが、創刊出来た恩と当時の自戒の気持ちを表す意味で敢えて公表する。発行日は定かでないが4月下旬の事と思う(熊日の抗議文から推して)。抗議文は平成6年5月7日付、以下は抗議文を原文のまま記載する。
平成6年5月7日
熊本県民新聞主幹 福島宏様


熊本日日新聞社情報開発局長
河村 至誠
前略 このほど発刊されました「熊本県民新聞」創刊号拝見いたしましたが、熊本日日新聞からの無断転載と認められる個所が5か所ございました。当社が無断転載と考えておりますのは写真4件、記事1件で、内訳は次の通りです。写真@1面 二期目の当選を喜ぶ田尻市長(熊日提供)。A2面 議会で陳謝する田尻市長(熊日提供)。B2面 不正の舞台となった競輪場発券所(熊日提供)。C3面 写真説明なし「市政百年虚構のイベント花盛り」の見出しに添付。記事@2面 「弁済金受け取らぬ宙に浮いた1000万円」の見出し後にある熊日平成元年11月13日付け夕刊「県警と協議?」の記事21行。
記事、写真などの著作物利用については、法律によって著作権者の許諾を得ることとなっておりますが、当社の窓口である情報開発局資料調査部では貴紙からの転載依頼を受けておりません。この問題について、文書によるご回答を頂きたいと存じます。敬具。
熊本日日新聞社情報開発局〒860熊本市世安町172熊日世安センター。


 筆者も著作権のこと、許諾が必要な事は充分認識していて、創刊号を書いている際に「許可を貰わないといけないな、電話をしなければ…」と実に安易に考えていたのである。そう思いつつ実行はせずその内に創刊号は出来上った。で「事後承諾でいいか」と思いつつ発行したのが本音である。従って、この抗議文を落手した後すぐ返書したが、この返信はコピーしていなかったので何と書いたか覚えていないが、前述の気持ちをそのまま書いたと思う。河村局長から返信は以下の通りである。


 平成6年5月17日
熊本県民新聞社主幹 福島宏様 熊本日日新聞社情報開発局長 河村 至誠
前略 5月10日付けの貴信拝見致しました。熊日記事と写真を貴紙に無断転載する結果となったのは貴紙の手落ちである事を明確に認められた内容であり、当社として納得できる釈明とお詫びであると考えます。従いまして無断転載についてはこの釈明のお手紙で決着したいと存じます。今後ともに著作権については十分にご配慮頂きますようにお願いいたします。新聞各社
とも外部への記事等の提供につきましては@人権等に配慮し事件、事故ものは提供しないA裁判資料、政治活動宗教活動への利用はお断りする―という規定を設けているところが多いのが現状です。熊日の著作権対応の窓口は情報開発局資料調査部ですのでお問い合わせの件がござしましたらご利用いただきたいと存じます。敬具 以上大変温かい文書で小紙の無礼を許して頂いた次第である。恥ずかしい。


購読申込みトップは信用金庫

 筆者自身、新聞発行は始めての試みであり、購読者(社)が果たして居るのか暗中模索での船出であった。前述したが市役所の課長クラスに星子市長時代から親しかった職員が数人居た事もあってすぐ個人購読料が振り込まれた。企業宛に出した見本紙の購読第1号は何と某信用金庫からの法人購読料3万円であった。当時の金融機関は、この類の新聞は協会として断る申し合わせが行われている事を知っていたのでこれは驚きであった。後日談になるが、その金庫の理事長に何かのパーティーで一緒になった時、購読のお礼を云うと「金融機関の第1号はうちだったでしょうが」と云われた。以後現在も購読して頂いているが、創刊号だけ見て何故購読を決めたのかは分からず仕舞である。建設業界は殆ど「受け取り拒否」で返送されて来たが、5、6号位から相手からの申込みが続いた。市議、県議の数人からは盆と暮に数万円が振り込まれた(村上県議もその一人)。筆者は自分の方から「購読してくれ」と頼んだ事はない。“借り”が出来るのを嫌ったからである。だから書く時には書けるのである。



 4月14日夜に発生した震度7の大地震は、筆者にとって想定外の出来事であった。布田川断層帯、日奈久断層帯については20年以上前から知っていた。それが新聞であったのか、何かの雑誌だったか記憶はないが、示された断層帯からわが家はかなり離れていると読んだ。加えて「過去の熊本には震度6程度の金峰山大地震があっただけで、今後も6以上の地震は来ない」という“刷込み”があった。従って大地震に係る心構えは皆無であった。気象庁が後付けで“前震”とした14日の地震は事務所で遭った。床を突き上げた初動の瞬間「とんでもない大地震だ」と直感して机を掴んだ。2、3回突き上げて激しい横揺れが襲った。「すごい地震だ」思うだけで動ける状態ではなかった。15〜20秒位で地震は収ったと思ったが、人によっては1分位だった、2分位だったと、揺れの長さの感じ方は違う様である。2日後、気象庁後付けの“本震”の際は自宅の風呂場であった。洗い場に座っている時あの強烈な揺れが襲った。ガーッともゴーッとも形容し難い大音響の中、左手で風呂の縁を掴み、右手で壁を突っ張り転げるのを防ぐのがやっとであった。この時の激しい揺れも20秒前後の様であったが、恐怖の中で思ったのは「又来やがった」だけである。揺れが収った後入浴を続けようかと思ったが、家人が気になるので体を拭いて上がり、互いの無事を確めた。二度と味いたくない出来事であった。



 本面に創刊2号の1面と2、3面を見開きで載せている。創刊号と併せて読んで頂ける様スペースを大きくとっているので何とか読めるだろう。

 創刊号を読んだ市役所の職員からの内部情報と、親しい市議、元市の幹部からの情報提供で構成されている。創刊号の「当選御礼・水増し採用」の見出し記事にある様に、田尻氏は初出馬の際川俣芳郎氏と激戦になった。そこでばら蒔いたのが「当選したら貴方のお子さんを市役所職員に入れて上げますよ」作戦であった。選挙資金は借金と一部有力議員らのカンパと云われているが、この「採用」作戦は相当効果があったとは後日何人もの市幹部から聞いた。

 下欄の表の通り初当選した次年度の昭和62年度は採用予定180名に対し、実際に採用した職員は296名である。その後も田尻市長在任中は「各議員に採用枠があり、ベテラン議員は5、6名、新人議員は1、2名」という噂が根強く流れた(この噂は後年某市議から「採用枠があったのは事実だ」と筆者は直接聞いている)。この頃流れた噂が「採用された時の礼金は一人300万円」であったが、この金額は後に500万円になったが、その事実は採用されたバカ職員が「俺は議員ではなく直接市長に500万円を持参した」と職場で自慢して事実が裏付けられている(小紙も記事にしている)。裏口採用となる人物が、せめて中程度以上の能力があるならまだ救いもある。しかし、裏口採用を依頼する輩の子女が優秀なら他の企業なり、公務員試験にパスしている筈。せいぜい地元の中小企業にしか行けない様な連中の親や、親戚がコネを通して依頼する訳で、優秀な人材が集まる事はない。それでも上位20〜30名は採用していた。その分野まで切ると不正採用がばれる恐れがあるからである。で、この時期に採用された能無しが現在中堅職員の一部を占めている。これを幸いと思ったかははっきりしないが、幸山市政後半、職員の不祥事が続発した時の云い訳に幸山市長曰く「田尻市長時代に出鱈目に採用した者が事件を起こしている。俺の責任ではない」発言であった。この発言、確かに一理はある。が、幸山市政時代の職員の不祥事多発は市長の偏った人事、池田との不倫暴露による職員の士気低下によるものと思っている。

 又横道に逸れたが、田尻市長のイベント好きと赤絨緞は有名であった。特に熊本動物園には御熱心で、中国から金糸猴とパンダを誘致しようと懸命に動いた。金糸猴は何とか誘致に成功したが、パンダは左の6月号1面にも書いてある通り、各種団体の反対で通産省の認可が下りず失敗に帰した。しかし、誘致が出来るとの思い込みから2億3千万円をかけて「パンダ舎」を完成させていた為使途も決まらないまま放置されてしまった。この時期、田尻市長はよく動物園を訪れていたが、行く時には公用車の運転手から車載の電話で園長に連絡する。園長は田尻市長到着時間に合わせて現業員以外の職員を出入口に揃えて待つ。田尻市長が乗った公用車(ホンダレジェンド)が入ってくると一斉に深々と頭を下げてお出迎えをする。車から下車して事務所に入る通路には赤絨緞が敷かれ、その上をコロコロ肥った市長が歩いて園長室に入る。おしぼりで顔を拭いた後は、備え付けのソフトクリーム製造器で作られたソフトクリームを美味しそうに食べる。これが田尻市長が動物園を訪れた時のパターンである。

 この年の3月議会で田尻市長は「3選不出馬」を表明して議会を驚かせた。創刊号4面「街の噂から」で「東京地検特捜部 田尻市長から事情聴取か」が第一報であった。後日、小紙がスクープした通り東京地検特捜部検事が広島高検に出向き田尻市長から事情聴取をしている事が分かった。関東の県知事の汚職に絡むガサ入れで某ゼネコンの帳簿を押収、全国の首長らに贈賄していた事が判明した。特捜部は容疑者の余りの多さに国民に政治不審を招くとして関係首長から供述書をとるに留めたと云われる。田尻市長は市庁舎改築絡みと云われ、次期市長選不出馬で“手を打った”と云われる。尚、小紙の東京地検特捜部のスクープは「松岡代議士がホテルニューオータニで事情聴取を受けた」報道でも発揮された(少し自慢)。





 小紙創刊号の反響の大きさは別欄でも“自画自賛”しているが、ここでは小紙なりの“スクープ”について記す。

 創刊間もない第3号(7月号)1面で「田尻市長退任後の野望」と白抜きの大見出しで報道した。田尻市長はこの年12月で任期切れとなるが、3選出馬はしないと3月議会で表明していた。その後の天下り先として国際交流振興事業団理事長就任を画策していたのである。国際交流会館はこの年9月に完成を目指して建設が進んでいた。地上7階地下2階建の同館は、着工時「談話室」として設計したが、3月に「理事長室」に変更、トイレ洗面所付きの豪華仕様となった。小紙の批判記事と、その後熊日も厳しく批判した事で田尻市長の理事長就任は実現しなかった。結果的に市長が兼務するとなっていた「社会福祉協議会」会長にそのまま居座った。この問題については、田尻市長の後任として当選した三角新市長にインタビューした際「田尻前市長が社会福祉協議会の会長に留る事について」の質問に三角新市長は「会長職は忙しいので民間人が適切だ、丁度田尻市長が民間人になられたので会長にそのまま居てもらって、私が名誉会長、市長名で感謝状など出したいと思っている」と答えている。田尻靖幹前市長は第2の職場として渋々社会福祉法人の理事長に就任、一件落着した。

 続いて第2弾として糾弾したのが「田尻氏の女」として社会福祉事業団の“女帝”として君臨していた「オカポン」こと岡元某女である。田尻市長在任中「いろハゲ市長にオカポン女帝」の見出しで二人の関係を曝露した小紙第3号は熊本市職員に大好評であった。この岡元某女は夫との間に二児を得ていたが、准看と養護教員の免許を取得していて民間の老人施設に勤務していた。昭和61年11月に行われた市長選に田尻氏が立候補した際、交通局に勤務していた姉婿に頼まれ田尻選対を手伝った。それが切っ掛けで田尻氏と知り合い、田尻氏が市長に当選後程無く田尻氏と親密な関係になったと云われる。昭和63年4月、熊本市福祉事業団に“参事”として採用され、水前寺4丁目在の「母子福祉センター」に勤務した。平成4年、熊本市福祉事業団は城山薬師町にデイサービス施設「長寿の里」を開設し岡元は副施設長に就任したが、施設長はお飾りで、実権は岡元が握った。同施設にアイスクリームフリーザーを設置したのも小紙が曝露した。アイスクリームは田尻市長の大好物であり、田尻市長は3日と空けず同所を訪れていた。これらの事実を小紙が報道した記事を読んだ岡元は烈火の如く怒り(元々ヒステリー)K所長らに情報漏洩の犯人探しを命じたが“犯人”は分らず仕舞いであった。この年(平成6年12月)、田尻市長は退任。新市長に三角保之氏が就任したが、退任後の12月24日から3日間、熊本市の友好姉妹都市中国・桂林市に市幹部と共に“退任挨拶”に訪れているのである。勿論公費で。これを批判したメディアは無かったと記憶している。横道に逸れた。

 岡元は、小紙報道で長寿の里が注目されだしたからか、自分から希望して福祉事業団経営の西里デイサービスセンターに移った。しかも所長としてである。ここでも専横は続いていたが、それも終止符を打つ時が来た。小紙が岡元と田尻氏の不倫の現場を押えて報道したのである。岡元の自宅は東部の新興住宅地に在る。「田尻氏が岡元の自宅を訪れている」という情報を得て、わが社の調査員を張り込ませる事1カ月余。岡元の勤務時間中に訪れる田尻氏の姿を2度程、夕方から来て夜間に帰る状況も2、3度撮影に成功して報道した。それから間もなく岡元は施設の全職員を集めて退職を表明した。曰く「私は県民新聞報道が原因で退職します」とわざわざ小紙の名前を挙げた。だが、その時岡元は自宅近くに鉄筋2階建のデイサービスセンターを建築していたのである。次の事業が控えているのに何故わざわざ小紙の名前を出したのか。因に、この2年程前岡元は自宅を新築している。大成建設のプレハブ2階建、デイサービスセンターも大成。市庁舎も大成、手取北区再開発も大成。そう云えば花畑地区再開発も大成だったな。こうして福祉事業団の女帝オカポンは去って行ったのである。この時、福祉事業団関係者から「お陰で職場が明るくなり職員一同御紙に感謝しております」の礼状が届いた。



 前号承前。村上寅美県議は「―貴殿は2008年2月号において緑川養殖漁業生産組合について、あたかも問題があるかの様な記事を掲載されましたが―」と、小紙が悪意をもって報道したと断じているので、当該記事の根拠を証明する。平成20年現在の熊本県養鰻漁業協同組合役員は、左上に掲げたメンバーで、平成19年度の総会議事録の署名人である。議長村上寅美((株)ヨーマン代表取締役県議会議長)。理事吉本勢治(漁業)。園田敏徳(同)。同川越誠(みかん農家、(株)黒汐監査役)。同川越博明(寅美実弟、ヨーマン取締役、福岡ヨーマン社長)。同木下優喜(みかん農家、九州建装非常勤役員、寅美氏の妻の弟)。同村上正守(寅美氏長男、(株)ヨーマン役員他)監事中村栄(みかん農家、村上県議親族)。同高木廣幸(元海産物販売業)。組合法では「役員の3分の2以上)は組合の業務に従事しなければならない」となっているが、同組合の業務に就いている者は1名も居ない。

  同組合は平成19年現在「正会員(組合員)は30名が名前を連ねている。前述した役員も正会員だが、他の会員も一部掲示する。高木某(高木監事の兄弟、事業に失敗職業不詳)富崎某(九州建装社長)。山本某(山本建設(株)社長)。村上某(みかん農家、建設業)。杉野某(杉野建設社長)。緒方某(黒潮市場社長)。川越某(農業、建設業、シラス採捕)、外牧某(黒潮市場役員)。堀田某(元えび、うなぎ養殖業)。今村某(元うなぎ養殖、シラス採捕)。今村某(前記今村兄弟)。九州生鮮。(株)ヨーマン。

 熊本養殖業生産組合等で、この中でうなぎ養殖に係っていたのは本渡市の堀田、玉名市の今村母子だけで、かつて減反政策に伴って水田で金魚、うなぎなど養殖したが失敗しており、当時はシラスの採捕権を生かしてシラスの採捕をシーズン中に従事するだけであった。従って、熊本県が「養鰻漁業協同組合」を認可したのは水産業協同組合法に違反していると断定出来るのである。別掲の如く、熊本県農水部水産振興課は、昭和47年12月五日提出の組合員名簿を以後平成20年迄一度も更新する事なく組合設立を認可しているのである。これを世間では“役人仕事”と呼んでいる。村上寅美県議が組合長、代表理事を務めている熊本県養鰻漁業協同組合に対し「強い水産業づくり」交付金として国は、平成17年度6638万5千円、18年度3127万5千円(内事務費81万9千円)を交付した。これに加え熊本県が1億前後補助金を支出、残金を組合が負担(銀行融資)して「緑川養殖センター」が建設されたのである。(平成17年5月完成)総事業費3億3800万円余)。運営母体は「緑川養殖漁業生産組合(組合長木下優喜)。この組合が組合設立申請は平成18年9月29日で、県が認可したのは同年12月22日である。通常1年前後かかる県の審査が僅か3カ月で認可となっている。

 筆者は、組合資格の不備と認可要件について、担当の団体支援室の幹部を追求したが「提出された書類と発起人達と何度かミーティングした結果問題ないと判断したので認可した」と回答した。しかし筆者が発起人の複数人に聞いた所「ミーティングなど一度もなかった。私も村上さんから『名前を貸して』と云われたので承知しただけだ」と語っている。今や村上県議最大の安定収入源と云われる緑川生産センターは、熊本県、村上県議が「ぐる」で作り上げた“村上一家”の私有施設と云っても過言ではない。因に、うなぎ産地偽装が発覚した九州生鮮を松岡建設社長に「譲渡した」と村上県議はメディアに語ったが、今年1月筆者が電話取材した所専務らしき女性が「こちらは大迷惑している」という事であった。



PART2
書かなかった情報源
ここで明かしましょう

 前号では、余分な記事で紙数を使い過ぎ、本題は後半に僅かしか書けなかったので追加して本号で述べる。

 “情報源を明かす”事は、メディアではタブーである。従って具体的言動、氏名は1人に限った。この人物が、生産センター内の情報を筆者に漏らしていた、と前号で知った(と思う)村上県議は肝を冷やした事であろう。脅す気持はないが「ここまで深く取材していますよ」と認知して頂く意味もあって書く事にした。村上県議に対する一連の報道でこの情報を書かなかった様に、他のメディア関係者も同じと思うが「知り得た情報」を全て書く事はないのである。前号承前。

 緑川生産センターが実動しだしたのは平成18年からである。施設が完成したのが前年である。予定としては、当時植木町正清の肥後養殖(後の九州生鮮)柳田場長を緑川生産センターに移動させる筈であった(関係者談)。柳田場長は鹿児島出身のバツイチ。酒とパチンコ大好き人間であった。それが原因で養殖場の管理を怠りプール2面分のうなぎを殺してしまった。出荷予定が狂った為、台湾産を急拠輸入し「九州生鮮産」として出荷したのが発覚、大きく報道された。責任を取らせて柳田氏は解雇され郷里に戻った。その後釜として雇用されたのが前号に登場した北山某氏である。北山氏は養殖場経営のプロで、主に静岡の一色養鰻組合員などの所で働いていたが村上県議に「かなりの好条件」で誘われて緑川センターを立ち上げた。村上県議は人を信用しないと云われ、北山氏のお目付役として秘書の仕事をしていたS女子を監視役としてヨーマンから出向させた。そのSさんが平成20年6月に退職した。他の従業員からは「北山さんとSさんが出来たので解雇された」と聞いたが真相は分からなかった。

 筆者の深読みだが、その話も否定出来ないが、この年1月21日から25日迄会計検査が入っている。後にS女子がヨーマンに復職している事を考慮すると、この検査に関係しているとも思える。この北山氏は「国と県からの補助金は2億3000万円出ている、5月10日付養鰻新聞に出ているので間違いない」「宮本という運転手上りが来ていてミスを起した、それをSさんの責任にした」「Sさんはヨーマンに24年勤務したのにかわいそうだ」とSさんを庇ったのも気になる。ある夜北山氏が「私の車の写真を撮ってくれ」と云う。訳を聞くが云わないので2、3枚撮って後日渡した。何かの工作に使った筈だ「村上先生心当りは?」。大阪ナンバーのホンダ36―43と覚えているが。養殖場の管理については、村上県議の妻の弟、木下優喜氏がミカン農家から転身、北山氏から管理技術を修得し、北山氏が去った後を継いでいる。当時の情報は外に県水産振興課、他県の同業者、メディア記者等の協力を得て書いている。

 前号訂正
前号で秘書的役目をしていたKさんを、とあるのをSさんと訂正致します。一字だとKとも読めるので早トチリしてKとしてしまいました。


*
  * *