熊本県民新聞 WEB版
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〒861-8034
熊本市東区八反田1丁目14-8

発行者:福島 宏

電話:096-234-8890
FAX:096-234-9883


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 全国生活協同組合傘下の熊本県民生活協同組合 (吉田秀樹理事長) (熊本市中央区呉服町) で一人の新入職員を巡って一部の社員が“不快感”を持っている事が分かった。 仮にA君とする。 A君は今春頃正職員として採用され、営業担当をしていたが、“営業能力が抜群”として初紹介されたものの、鳴かず飛ばずであった。 その内に誰云うとなく 「彼はテレビ局の幹部の息子で理事長の紹介だ」 「以前ここに勤務していた理事長の娘がそのテレビ局に入社している。 自分の娘と交換して採用したのではないか」 という噂が立った。

 その頃小紙に情報が寄せられたので 「これはスクープになる」 と1面に予定していた記事を後回しにして取材に動いた。 所が県民共済、KAB熊本朝日放送ともにガードが固く、事実確認に1カ月を要してしまった。 以下の取材結果は、細部での裏付けは取れていないが大筋では事実と判断している。 熊本県民共済生活組合 (以降県民共済と記す) は厚労省認可の全国生活協同組合連合会傘下の非営利協同組合である。 平成11年3月に法人成立、同14年4月に組合員共済事業が許可となった。

 吉田秀樹理事長は青山学院大学卒業後生命保険会社を経て県民共済に入った。 性格については一点集中型というか、これと思った事柄には集中するが、その分周囲への気配りが届かず 「独断専行に走り易いタイプ」 と職員からの評価は高くない。 ある職員は 「ワンマン理事長で部下の云い分を聞き入れるタイプではない。 ミスを起こした時などの叱責も厳しいので多くの職員は好感していないのではないか。 理事長のお嬢さんが職員として入って来た時は皆腫れ物に触る様でした。 テレビ局に転職すると云って辞めた時はほっとしました」 以上は複数職員の話である。

 吉田理事長とKAB熊本朝日放送 (以降KABと称す) 松林洋史常務取締役 (営業統括) は業務を通して10年位前から親交があったと云われている所から夫々の“子供の交換”に話が纏まったのだろうか。 松林常務の息子A君は正職員として県民共済に勤務を始めたが、吉田理事長の娘B嬢はKABの正社員採用とはならなかった。 これは松林常務の 「天下り社長は俺の云い分は聞く」 との思い上りの大誤算で、社長は首を縦に振らなかったのである。



吉田理事長 意趣返しか
KABへの広告出稿料を減額
 承前。 KABに限らずキー局を持つ民放は新聞社の系列下にある。 KABは朝日新聞社系列のテレビ朝日が親会社である事は皆さん御存知の通りである。 KABも代々朝日新聞社からの天下り社長で、現社長の磯松浩滋氏は5年位前に社長として赴任した。 これまでもだが、新聞社とテレビ局はシステムが全く違うので、結局は地元生え抜きのトップ (常務か専務) が実権を握る事になる。

 松林常務の子息A君はマリストから東京の私大に進学、卒業後都内の企業に就職していたが帰郷して共済組合に採用されたという。 同組合の職員に聞くと 「うちは縁故採用が多い」 と云って 「A君も何らかの繋がりがあるのだろうと思っていた」 と語った。 尚、この記事を書き終る直前県民共済関係者から 「A君は10月末で退職した様です」 と連絡が入った。 職場での冷たい目に耐えられなかったのか。“親の犠牲者”とも云える。

 他方、契約社員として勤務していたB嬢は今春 (といっても5、6月だが) KABの中途正社員の採用試験を受けたが (欠員補充にB嬢を加えた?)、B嬢の成績は芳しくなかったらしい。 それでも松林常務は磯松社長に掛け合ったが社長は頑として受け容れなかったらしい。 結果を知らされた吉田理事長はKABに毎年付き合っていた夏以降のイベント等のスポンサーから降りてしまった。 KABの営業担当も吉田理事長に翻意を求めた様だが空振りに終った。 県民共済関係者にKABに関する広告代の減額を聞いたが 「担当者以外は分かりません」 との返事だったが、言葉のニュアンスから減額分が他の民放に回った様な印象であった。

 筆者の知人が居る某民放関係者に聞くと 「共済とKABの繋りは強かったが確かに今夏頃から出稿が減っているのが分った。 同業的には1千万円は下らない様に見える」 と分析してみせた。 とすれば、松林常務は私利の為取引先を怒らせて、会社に損害を与えた事になるのではないか。 テレビ局という公共性の強い会社の私物化は許せるものではない。

 KABは、昭和63年12月、主に地元経済界が出資して設立されたが、松林常務は設立時に採用されており、「出資者の誰かが口利きしたのではないか」 との陰口も聞いた。 他方、吉田理事長だが、ある程度取材が出来た10月21日の夕方、直接吉田理事長のコメントを頂こうと県民共済に架電した。 女子職員が 「只今外出しております」 と云うので 「何時頃戻りますか」 と聞いている時 「ああ今戻りました」 と云って吉田理事長に繋いだ。 電話に出た吉田氏に 「熊本県民新聞の福島と申します。 一寸お会いしたいのですが」 と云うと 「どんな用件か」 と聞くので 「会ってからお話しします」 「内容が分からなければ会いません」 と云ったので 「実はお嬢さんの事で…」 と云った途端 「ああその事なら私は何とも思っていませんので会う必要はありません。 お宅は頼んでいないのに書くのですか」「はい書きます」。 「こちらは気にしていませんので会う事はないでしょう」 と云って切ったのである。 これを 「云わず語らず」 と云う。 こちらは 「正社員にはなれませんでしたね」 とは云っていないのである。 「その事は何とも思っていません」 は、正社員に採用されなかった事を指していると解していいだろう。 筆者が聞きたかったのは 「そのこと」 よりA君の採用過程であった。 加えて毎年付き合って来た夏のイベントから何故降りたのか。 降りた理由は娘が正社員になれなかった意趣返しではないかの確認であった。 厚労省認可の公共性の強い県民共済を私物化した行為は指弾されても仕方あるまい。



欺瞞に満ちた市民説明会
卑劣・建て替え前提の資料を使用
 大西一史市長は市庁舎建て替えについて“貪欲”と云っていい程の拘りを見せている。 あの熊本大地震に耐えてびくともしなかった建物を何故建て替えようとしているのか筆者は理解に苦しむ。 某土建業者にこの疑問を聞いた所 「それは大西が莫大な借金を背負っているからたい。 だけん箱物を作りたがったり、市電の延伸を画策しよっとですよ」 という。 が、筆者はこの言も納得出来ないのである。 大西市長が莫大な借金をかかえているなど聞いた事がないし、借金があると何故箱物を作るのか、作れば借金が減るのであろうか。 誰か正答を教えてほしいものだ。

 閑話休題。 本庁舎建て替えに猛進する大西市長の理由を集めた。 「これまでと異なる地震波が来たら震度6強でも耐えられず、建物が傾く」 「市庁舎下に断層が走っているのでいつ大地震が起きてもおかしくない」 「大災害が発生した時、現在の建物では安全対策本部が設置出来ない」 等々である。 この主張に対して反論したい。 これまでと異なる地震波とはどんな物か説明願いたい。 現市庁舎建築の際、以下の調査を行って耐震設計が行われたのを御存知か。 「熊本市庁舎建設の記録」 55頁、昭和53年7月27日 「『熊本市庁舎新築工事に伴う敷地地盤の常時微動及び弾性波速度調査』 を早稲田大学理工学研究所に依頼。」 と記されている。 これは地盤の揺れの特性を調査するもので、約1週間かけて地盤に特殊な打撃を加え、その際の揺れの特徴を掴み耐震設計に反映させる為のものであった。 調査を行ったのは、当時土地構造地震学の第一人者と称されていた古藤田教授が指揮して行われている。 その調査結果を加味、明治以降各地で発生した大地震の地震波を参考に耐震設計が行われたのである。 先頃の熊本大地震で市庁舎の建物がびくともしなかったのがその証左と云えるのではないか。 設計した(株)山下設計は日本最初の高層ビルである 「霞ヶ関ビル」 (昭和43年完成) を手懸けた一流会社である。 本来なら大西市長、安井建築設計事務所に対して山下設計から“侮辱罪”や“名誉毀損罪”で訴えてもおかしくはない事案である。 所が山下設計は最近完成した新熊本市民病院、水道局など市の仕事を請け負っており、市に苦言を呈する事など出来る筈はない。

 現庁舎は前述の如く山下設計が設計を担当した。 その市庁舎に不安があると大西市長。 ならば、何故市民病院の設計を任せたのであろうか。 市民病院建設発注についても県内の大手建築業者から色々な噂が立っていますぜ。 「庁舎下に断層…」 は省略。 「大災害が発生した時、現庁舎では安全対策本部が設置出来ない」 のであれば、旧花畑別館の敷地があるではないか。 ここに5、6階建の免震構造の防災ビルを建てては如何。 大西市長が主張している、建て替え必要論は己れの欲望を満たす以外の何物でもないと筆者は断定する。 本面に掲載している説明会場で配付した資料を読めばどんな頭の不自由な人でも判るであろう。 市民の多くは小紙の主張を支持するが自らは声は挙げない。



現庁舎
基礎工事・当時最高であった
関東大震災に耐える自信作
 熊本市は市庁舎建て替えの市民説明会を本年6月から8月にかけて市内17カ所の公民館で開催した。大西市長の本意は「これで市民に対する説明責任は果たした」とするセレモニーであったのだろう。説明会の時間は午後2時と午後7時の2つの時間帯が充てられていたが、開催曜日は月~金曜日で、土、日はない。一般のサラリーマンなど午後2時では参加は無理だろう。しかも各公民館の説明会参加者は多い所で10人前後、少ない所は数人だったと聞く。

 筆者も「どんな説明を行っているか」興味があったので、わが校区内の託麻公民館 (7月5日金曜日) に行った。開会した後であったが、筆者を加えて6名である。そこで貰った資料が本面上の「熊本市役所本庁舎の現状」のパンフである。大き目にスペースを使ったので読めると思うので説明文は省かせて頂く。

 「平成29年度に本庁舎の劣化状況を調査」の見出しの下に「排水管の劣化」「外気ファンの劣化」とあるが、これは“当り前”の事である。建築後時間が経てば排水管が狭くなったり、詰る事もあって当然である。一般家庭、マンション、ホテル、オフィスビル全てに当て嵌まる現象である。その為に管理費の積立てがあり、家庭では定期的にパイプ洗浄剤を使用する。外気ファンなど例に挙げるだけでも“野暮”というものだ。工場などでも大型換気扇は数年毎に交換又は整備を行うのは常識である。中段「本庁舎は現在の耐震基準を満たしていないことが判明」は正に子供騙しの典型であろう。筆者は素人の為、この図を専門家に見てもらった。「基準値は現行の基準だろう。それから0・004をオーバーしたからといって耐震上問題はない。

 B図(1)が15階迄の高層部の基礎と思われるが 『部分的に損傷を受ける』 という意味が分からない。中の 『5本が致命的』 というのも理解不能」。(2)は公用車用地下駐車場でC図の(4)に見られる様に上部に建築物はない。図面上部は鉄筋コンクリート造3階の部分で、基礎杭が少ない。この部分も危険とは理解に苦しむ。」と解説、「基礎杭は上の建物を支えるのが役目で、通常計算した数値の1.5倍から2倍で設置している。建物の揺れと基礎杭の揺れは別物で 『基礎杭が損傷する恐れがあるから補強して建物を守る』 など聞いた事がない」と切り捨てた。B図とC図及びその間の実線は筆者が入れたものだが、B図(1)とC図(3)の実線内が15階までの高層部で「本庁舎」と書いてある上の実線から上は3階までの建屋である。説明文も「建設から35年以上経過、大改修を行う必要があったことから平成29年度に建物の劣化状況の調査を行った結果、電気や水道の設備の劣化が進行しており…略」。

 下段で「上記劣化状況調査の際、耐震性能についても併せて (傍点筆者) 調査を行ったところ、現在の耐震基準を満たしていないことが分かりました (傍点筆者) …略」と、恰も他の調査を行ったついでに耐震調査を行ったととれる記述を行っている。市庁舎耐震不足の第1報の熊日の中でも「老朽化した本庁舎の延命策を探るため…」とあるが、本命は“建て替え”の理由作りである。





上の図面と説明文は、本面左上に掲げた「熊本市役所本庁舎の現状」の裏面である。ここでは、耐震改修工事がいかに難しいか (実現は不可能に近い) を説明しているが、この基礎杭を補強しても建物の安全性はいささかも強化される事はないのである。市民を欺く説明でしかないのである。



 NHK熊本放送局夕方のローカルニュースの天気予報に出る松永予報士に不快の念を禁じ得ない。松永君は確か数年前から出演しだしたと思う。午後5時55分頃、同6時30分頃、同55分頃の3回と思う。出始めて1、2年はYシャツ、チョッキ、ボータイ姿に違和感はなく滑舌もいいので聞き流していた (ローカルテレビの天気予報は視る事が少ない)。

 所がである。多分昨年の春頃からと思うが、この松永君が下の写真の様に“シャツ”姿で出ていたのである。男に趣味のない筆者はびっくり仰天、慌ててチャンネルを変えたのである。松永君には悪いが色白でぶくぶくまではない“ぶく”肥りの体、肩から丸出しとなった両腕を「グロテスク」に感じたのである。これは松永君の責任というより演出したディレクター氏の“大ミス”であろう。第一に公共放送を自任するNHKとして、視聴者を“バカ”にした行為ではないか。無礼である。筆者は「暑がり屋」で、夏はポロシャツで過ごすが必ず衿付きである。「衿付きまでは許せるが、丸首姿は相手に失礼」と何かで読んだからである。翌日筆者はNHK熊本に電話をかけたのは云うまでもない。電話口に出た男性 (定年退職後再雇用されている感じ) に早速感想を述べる。「松永予報士のあの姿にクレームはないのですか」と聞くと「クレームはあります。しかし40代、50代の奥さん方には好評なんですよねー」である。「私は不快だ」と云って電話を切った。以後この時間帯にNHKを見る事はなくなった。

 同年9月17日午後6時のニュースから視ていた所、6時30分頃松永君が二の腕丸出しで出たのである。翌日も念の為にと同時間帯に見るとやはり出ている。以後この時間帯にチャンネルを合わせる事はなかった。冬の間はチョッキ姿であり、うっかり視ていたら下の写真の姿で又出て来たので携帯に収めた次第 (4月11日)。その後はチョッキ姿もあったらしいが、筆者のメモ「6月10日17時55分、又出た。それまでチョッキ」とあるので、ランニング (NHK職員はスポーツ用のシングレットと云っていたが)。

 NHKとしては倦怠期を迎えた40~50代のおばさん連中にサービスもいいが、腹に肉だぶだふの松永予報士“二の腕”出しに不快感を覚える変わり者も居ると知って頂きたい。

 不快・女子ナレーター
 筆者は深夜になるとNHKBS11にチャンネルを合わせる。そんな筆者が聞くに耐えない女子ナレーターの声を聞いたのは昨年 (と思う) 5月6日午後7時「NHKBSプレミアム」の「天皇いのちの旅象徴への模索」の中であった。中年女性と思われるナレーターが変に声を低めた感じで「…こう考えるようになったー」「○○だろうかー」「○○あろうかー」と語尾を伸ばすのである。その語りに一片の品性もなく「ホラー映画の語り手」と云ったら適切そうな言葉遣いである。余りの不快さに翌日葉書に「どうかあの人をナレーターに起用しないで下さい。お願いです」と書いて投函した。だがその後も続き、7月下旬アナザストーリー「アポロ11号」、9月24日アナザストーリー「フセインを探せ」でナレーターを務めた。読売系のKKTの番組でも出ていたのでフリーなのか。この不気味な声をNHKの幹部は何とも感じないのか。



創刊 23年を振り返る〈10〉
報道した各社・裁判で敗訴
 前号の林ヶ原記念病院理事長夫人と、看護部長らが交通事故死した小紙報道は第2弾であった。今号は初報を掲載して詳報する。

 前にも書いたがこの交通事故による死亡者4名の内、保険が掛けられていたのは理事長夫人と2人の看護部長である。残る看護部長には保険が掛けられていなかった。その看護部長の名前はTだ、准看で同病院に就職、林田理事長に気に入られ看護部長まで昇り詰めた。このTが運転していた病院所有のトヨタマジェスタが約60キロのスピードでガードレールの切れ間 (2m30cm) から海に向かってダイビングしたのである。常々Tは「私は理事長先生の為なら生命は惜しくありません。今居るこの3階から飛び降りろと云われたら飛んでみせます」と看護婦達への訓示の中で話している (FOCUSから)。筆者の情報では、このTが「当時波野村に道場を持っていたオウム真理教に修養に出されていた」と病院関係者から聞いている。この交通事故は余りにも謎が多過ぎた。FOCUSの記者とどの時点で筆者が接点を持ったか定かではないが、左に掲げた小紙平成12年7月号の中で「フォーカスは、七月二十六日号で第一報、八月二日号で続報、八月九日号でも 『不審な多額保険』 として報道を予定している」とある事から第一報前後から交流があったのだろう。

 最初に会ったのはFOCUSのH記者からの連絡で、熊本市内のホテルだったと思う。Kカメラマンと一緒であった。以後来熊の度に会い、又電話等で新情報を交換し合った。但し小紙とFOCUSの記事がダブる事はなかった。FOCUSは保険金疑惑を追求し続けたが、小紙は林ヶ原病院理事長に焦点を合わせた報道をしたからである。と云うのは、4人も死亡した大交通事故であったにも拘わらず県警本渡署は血液検査も行わず、その日の内に遺体を病院関係者に渡していること。事故発見当日のメディア各社の取材に本渡署は「単なる交通事故と判断したので血液検査は行っていない」と回答した。が、翌日TBSの取材では「血液検査を行い、運転手の血液から○○%のアルコール分が検出された」と前日と違う回答をしたからである。血液検査をしたのも隣町の整形外科医であった。

 筆者は運転していたT看護部長の実家を取材したが、父親が仏壇に供えていた娘の免許証を持って来て「この様に娘はゴールド免許で、お酒は苦手で口にした事はありません」と語った。これらの状況から“保険金目的の事故”で報道した場合、何1つ実証するものがないのである。筆者の予想通り、林田会と林田實理事長は新潮社と編集長を提訴した。新潮社側は最高裁まで争ったが名誉毀損記事だったとして約2千万円の賠償を命じられた。林田理事長はその後病院を売却 (現桜十字病院) 大矢野町に終の栖を建てたが数年後に急死した。




 昭和37年秋頃から坂口主税市長の知事選出馬の動きが出た事から、自民党県連は衆院議員の石坂繁氏に白羽の矢を立てた。と云うのは、坂口市長が民主党であった為、市政を民主党から奪還する意味でも“勝てる候補”として石坂氏を担いだという。翌38年1月に行われた知事選は2期目を目指す寺本氏に坂口氏が挑戦したが破れている。同2月に行われた市長選に石坂氏は自民党公認で出馬、坂口市長時代に助役を務めた田代勉氏を破って当選した。この時石坂氏は「1期で辞める。後は好きな読書と学校教育 (熊本学園大学の理事長を務めていた) に尽くしたい」と後援会幹部らに話していたと小耳に挟んだ事がある。石坂氏の市長当選で星子氏周辺が動き出した。その辺の所は荒牧邦三著「満州国の最期を背負った男 星子敏雄」(弦書房) に詳しいのでそちらに譲る (荒牧という茶坊主が書いた著書から引用はしたくないので)。

 周辺の努力で星子氏は石坂市政で助役の任に就いた。あと一人の助役は内藤睦義氏であった。内藤氏は豪放磊落で気さくな性分の為職員から親しまれていたらしい。一方星子氏は「元満州国高官、頭も鋭敏な様で近寄り難い」と助役1期目は職員 (と云っても部課長級以上だが) が敬遠していた様だと秘書課を経験した市OBに聞いた事がある。1期と思っていた石坂氏が「2期目もやる」となり、星子氏は「当初の話と違う」と思ったらしいが特に反対はしなかった。が、内藤助役の方は「石坂市政は守りの市政ではないか」と反旗を翻して出馬したが大きく水を空けられて敗北。星子氏は助役をそのまま続けた。しかし石坂市長は体調を崩し任期1年前に引退を表明する。早速星子陣営は選挙準備に入ったが、県議の櫛山弘氏も出馬の意志を見せ自民党に公認を求めた。櫛山氏は昭和40年に県議会議長を務めた実力者だが、金に纏わる話も多かった。2人が出れば民主系と見られていた河端脩 (寺本県政の副知事) に漁夫の利を与える事になる。裁定に入ったのが当時の“河津天皇”と呼ばれていた県政界のドン河津寅雄氏である。「河津が金を選ぶなら櫛山、人を選ぶなら星子だ」と囁かれていたが、河津氏は人を選んだ。その頃の河津氏は、大山林主として木材景気の波に乗っていた事もあると思うが、金より人を選んだ。選挙は星子対河端の一騎打ちとなったが僅差で星子氏が勝利した。



公正な人事に職員心服
 星子市長は当選直後から助役選任で苦労をしたが、昭和46年4月に大規模な機構改革を断行、不用と思われる部門を廃止、新組織を作るなど新風を庁内に吹き込んだ。人事については特に配慮、適材適所に人材を配した。2期、3期目も同様の実力、人物中心の人事を行った為「星子市長は公正な市長だ。正直者が報われる」といった空気が醸成されたのは大きな功績と云えよう。助役人事を見ても谷田、本田氏に続き、藤本洋一氏、高本久美雄氏など“真面目”な人物ばかりであった。

 只一人誤ったのが田尻靖幹氏である。「田尻氏を助役に」と話が出た時、周囲は「あの人は止めた方がいいのではないか」と忠言したが星子市長は「なあに私がちゃんと使うから」と云って登用した。その2、3年後筆者は市長室で星子市長と雑談をしていた。雑談と云っても筆者が教わる事ばかりであったが、その途中、筆者が「市長、田尻助役は如何ですか」と振ったのである。市長はすぐ反応し「田尻助役は立派な人ですよ、坂口元市長が亡くなった時、『葬儀をどうするか』 になった。坂口家には負担をかけたくないので私が局長達の意見を聞く為に集まってもらった。その時、他の局長は黙り込んだままだったが、田尻総務局長が顔を真赤にして 『当然市葬にすべきです』 と云ったので市葬に決まったんですよ」と、絶大な信頼を寄せている様子が見てとれた。筆者は「ああそうですか」と云って喉まで出ていた言葉を呑み込んだ。内心「この一事で星子市長は田尻氏に信頼を描いたのかも」と思ったのである。

 その時か、その前後に星子市長と雑談中「福島さん、あたには色紙は上げたかな」と訊かれたので「いいえ貰っていません」と云ったら市長は秘書に色紙を持ってくる様に、と云って目の前で揮毫して手渡してくれたのが掲示している漢詩である。筆者如き若輩者に「仁兄」は過分と思ったが有難く頂戴した。

 一方新庁舎建設も順調に進捗し、「市庁舎建設管理室」が設置され、徳永正巳総務局長を頭に室長には御厨一熊氏が就任した。この頃から新庁舎建設について業者と市議、市幹部の“裏の駆引き”が表面化する事になる。昭和54年3月徳永総務局長が収入役に転出、後任に田尻総務局長が就任すると御厨室長と共に市議会の悪と癒着、建設資材や物品納入に特定業者を指名する様になったが、これらが「星子市長に上る」事はなかった。



心を砕いた市庁舎建設
市民の目線で市政運営
 昭和45年12月20日行われた熊本市長選で当選した星子敏雄氏だが、選挙の疲れを癒す暇もなく翌日には登庁した。前月に退任した石坂市長と共に下川助役も退任したので三役不在が続いていたのである。従って星子市長が早急に為したのが助役の選任であった。星子氏が市長選の最中から心に思い描いていたのは本田哲郎氏と見て間違いなかろう。本田氏は東大を出て渡満、戦後帰郷後は桜井知事に招かれて副知事を務めた逸材だ。星子市長は、この本田氏と市総務部長を務めていた谷田起敏を助役案として市議会に承認を求めた。しかし谷田氏はすんなりと承認されたが本田氏は否決となった。一説では、この時の市議の中に早稲田大卒の自惚れ屋が居て助役の座を狙っていたので猛反対したと云われる。谷田氏の一人助役は続いたが、その後も星子市長は本田氏に拘った為議会の方が折れ2年遅れで本田助役が誕生したのである。

 1期目の星子市長が取り組んだのが新庁舎の建設であった。市議会では石坂市政時代からその要望が出ていたが、慎重居士の石坂市長が財政難を理由に首を縦に振らなかった。星子市長も石坂氏同様の考えは持っていたが、継ぎ足しだらけの庁舎と、夏でもエアコンなしの職場で働く職員の姿に心を動かされ新庁舎建設に同意したと云われる。

 昭和47年3月市議会は「市庁舎建設に関する特別委員会」を設置、市庁舎建設についての検討を始めた。

 昭和50年5月、市議会は同委員会を解消「市庁舎建設特別委員会」を設置、建設に向けて動き出した。これを受けて熊本市も本田助役を会長に据えた「市庁舎建設連絡会」を設置して具体的に動き出した。星子市長は本庁舎をどの様に位置付けるかに腐心、外国の市庁舎の状況を参考にする為西欧各都市を訪ね歩いた。

 その結果、ヨーロッパ各都市の市庁舎が市街地にあり、建物と並んで教会などがある事が分かった。建物の前は広場となっており、市民の憩いの場となっている事も分かった。帰郷後その経験を生かし、山下設計では庁舎に車が直接横付けされる案であったが、玄関前を狭いながらも広場を設けた現在の型に変更した。庁舎横には「水と森を」を生かし、議会棟との間に小さいながらも池と樹木を配した。又庁舎には市民がサンダル、下駄履きで気楽に来られる様にと玄関口にロビーを作ったりした。環境に対する意識も高く、毎日歩いて通る白川公園を森林公園にして、国道3号線を渡るのは危険だから地下道を作りたいと常々語っていたという。
 その一つが立田山で、「民間のままだと花岡山の様になる」として国、県を動かして民間から買い上げた為今の立田山があるのである。
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