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発行者:福島 宏

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 平成30年6月、熊本市が市庁舎問題を市議会の「公共施設マネジメント調査特別委員会」で報告し、市の対応を示した建て替えを含む4案について6日付熊日が詳報した。

 この記事を読んで不信を抱いた筆者は情報収集に動き「建て替え不要」論を展開して今日に及んでいる。当初から「建て替え」を前提とした熊本市に一撃を与えたのは市議会自民党市議団が招致した参考人であった。参考人の齋藤幸雄氏は広島国際大工学部の元教授。元教授と云うと「大学院を出て教授の道を歩いて定年を迎えた」と思われがちであるが齋藤氏は違う。京都大学工学部建築学科を経て同大学院工学研究科修士課程修了後㈱日建設計に就職、34年間設計業務に携わった。その後「齋藤建築構造研究室」を立ち上げた建築設計の権威である。

 同氏は8月2日招致された特別委員会で熊本市が提出した調査報告書についても内容に疑義を呈している。市は安井建築設計事務所に耐震診断を依頼、その報告書を基に「震度6強の地震が発生した場合、現在の庁舎は傾く恐れがある」としてその原因を建物を支える「地下杭にある」と断定した。「それを補強するには基礎杭210本が必要だが、物理的に不可能として現地建て替えか、他所に新築移転しかない」と説明した。

 この論に疑義を抱いた小紙は、現庁舎建築経過を記録した熊本市刊行の「建設の記録」を基に「建て替えの必要なし」の論陣を展開したのである。齋藤氏の見解も、独自の資料などとともに、小紙の主張と同様「設計は耐震性能を十分検討されており、今後震度6強の地震が起きても耐えられる。熊本地震で6強に2度も耐えた事を市は評価に入れていない」と指摘。又阪神・淡路大震災で被害を受けた神戸市役所本館を例に挙げ「8階建ての6階で層崩壊が起き、解体か補強かとなったが、5階迄を解体、5階を建て増し、階下を補強して現在も使用中だ」と語る。

 市庁舎の基礎についても、「熊本城の地盤もいいし、市庁舎も同じだ。そのいい所にさらにこんな太径の杭が(打たれている)恐らく日本中を探してもこれだけの断面積の大きい杭が打ってあるのはないと思います」とまで述べている。「調査の告示波はやはり人工的に作る波であり、実際に記録した波では絶対に来ない様な何か問題を孕んでいると私は考えます」と告示波によるシミュレーションに疑問を投げかけている。

 市庁舎の基礎杭の周囲を厚さ60cm深さ19mのコンクリート壁が囲んでいる事にも触れ「ここ(本庁舎の下)を掘ると大体4m位で水が出る(筆者は2mと聞いた)ので水止めが必要だ。連続土留壁工法を各ゼネコンが独自に開発していて大体開発が終わった時期だ、地盤補強になっている」と説明。この件について筆者が得ている情報は「出水は分かっていた。普通だと鋼矢板を使うが、この時大成建設が『連続土留壁工法』で特許を取ったばかりで、実験台代りに損得抜きで施行した。工法は直径60cmの鋼管を土中に通しそこにコンクリートを流し込んで抜く。これを連続すると地中でコンクリートの壁が出来る。この壁は議会棟を除く高層部分の基礎全てを囲んでおり地盤強化に重なる」である。



市側参考人の髙橋治氏
本庁舎現行法の耐震基準不足
 前述8月2日に市議会自民党市議団が参考人招致したのに続き、市執行部は8月23日の市議会特別委員会に東京理科大工学部の髙橋治教授を参考人招致した。この2人の招致について熊日は齋藤氏を8月23日付都市圏で、髙橋治氏を8月24日付同欄で公平に報道している。但し紙面の都合もあってか、余りにも要約が過ぎて意見の大要にも届いていないと感じたのでここで記す。何れも両氏の発言議事録からであり、筆者とて上手く纏めきれるものではないし、我田引水的論評の部分もあるかと思うが、そこは割り引いて読んで頂きたい。

 両氏の発言を一言するなら「齋藤氏は確たる経験と知見に基づいた意見」髙橋氏は「茫洋とした見解」を述べていると読んだ。

 髙橋治氏の略歴。平成元年東京理科大学工学部建築学科卒業後同大工学研究科建築学専攻修了。その後民間の㈱構造計画研究所に勤務、平成27年4月出身大学の建築科教授となって現在に至る。この間出身大学で工学博士課程論文博士号を取得している。同氏は招致に応じて1日前に熊本入りして、市が依頼して「庁舎建て替え」を具申した熊大教授ら3人と会談。市庁舎にも訪れている。招致当日は熊大教授らも出席すると云っていたが出席したのは髙橋氏だけであった。髙橋氏は委員会前に具申書等に1時間程目を通して委員会に臨んだ。建て替え妥当と意見具申した熊大教授らが何故出席しなかったか不明。

 髙橋氏は自己紹介の後「配布されている資料について私の所見を簡単に述べる。熊本の地元の大学の先生方数名で報告書を読んだ。建物は37年経過、図面等で確認している。耐火被覆の方も古い建物なのでアスベストの使用も多少分かっている。最近出来た法律の方で天井について耐震性等も新たに懸念される」(筆者注・アスベストは本館吹き抜けの天井だけに使われている。最近の法には合っていないが違法ではない)。「引越しなどアスベストの除去、耐震の執務室の影響、近隣ビル分散の可能性、施行に伴う移転などを含め、25年後50年後はどうなるというものを評価した上でどれがいいかと云うことで検討をされてる状況と思う。民間と違い官庁は高目の地震力、外力を考慮して通常の建物より1.5倍という事で検討を進められていると思う。実際地球は地震波は横から斜めからも地震波は伝わって来ます」以下2面に続くが、地球規模の地震波は初めて聞いた。



 大西一史市長が独断で強行しようとしている熊本市本庁舎の建て替えについて、やっと論議が盛り上がってきた。その火付け役となったのが市議会自民党が招致した参考人の発言であると考えて良いだろう。熊日が「熊本都市圏版」で報道した事でそれまで「無傷の建物を何故建て替えるのか」と疑問を抱いていた市民に一つの解答を与えた事になる。

  続く市側の参考人発言も同じ面で報道した為、読者はどちらの云い分が正しいのか迷っているのが現状ではないか。熊日は地方紙の性格上、小紙の様に記者や編集長の思考、判断をそのまま記事にする事は許されない。故に要約した部分を見出しに使用した結果、齋藤参考人については「本庁舎補強必要ない」、髙橋参考人は「本庁舎耐震満たさず」になったのだと思う。小紙の建て替え不用論については学者、弁護士、一級建築士らの賛同を得ているが、ここでは私見として述べる。

 両参考人の発言を議事録で読む限り齋藤氏の方が緻密な数字を挙げ、地震波の力がかかった市庁舎の揺れ、南北方向、東西方向等を解析している。加えて「それらが報告書に全く出て来ていない」と報告書の信憑性にも疑問を呈している。反面、髙橋参考人は市側の云い分を丸呑みして「中層階が大きく揺れる」とか「頻度の低い大地震のリスクに備える必要がある」など抽象的な内容に終始している。両参考人の経歴を見ても齋藤氏が格段に優れているのは一目瞭然だ。



 1面に続いて髙橋氏の発言を検証する。「」内は髙橋氏が発言した議事録から得た事をお断りしておく。

 前頁に続くが、髙橋氏は「…25年後はこうなる、50年後はどうなるというものを評価した上で検討されているものと思う」と市側に忖度するが如き発言をしているが、われわれ熊本市民は“現庁舎の建て替えが必要か否か”を知りたいのである。その後に続いて「…今回の場合は横からくるとか例えばこちらの石垣の堀(塀?)に反射してくるとか、そういう所までやっていませんが、法律で定められてないのでそこまでやる必要はないが、その辺をよく考慮して設計地震力を決めるのではないかと私は当時(筆注・いつ何処で)伝えた知見の一つです。霞ヶ関ビル、日本で最初のビル(この表現おかしい)は当時地震の知見が日本に余りなく、アメリカの西海岸の影響を考えた上で霞ヶ関ビルで最初に使用している。最近になってこれだけの地震波は小さいですので、日本ではそれを全部包括して日本列島を考えた波の告示波というのを国交省から使うよう法律で定めてあります。熊本の地震計数は0.9、東京は1.0です。法律上では0.9を掛けることで施工出来るとなっている。この前震度7が2回起きた地震で本当に0.9でいいかという議論もあったかと思います。私が今後熊本に住むと考えたり想定していくと0.9で本当に足りるのか、自分は学者として懸念する所ではあります」陰の声〈あんたが住む筈なかろうが〉

「今回の資料は、比較的丁寧にやっていると思う、何と12波について全部振動解析、建物の解析、構造計算を行ってそれも公表しております〈当たり前の事〉。本来はこの中で告示波及びサイト波で3波だけ使用すればいいと云っておりますが、色々使った中で自分の都合のいい小さい3波だけ用いるというのは私は余り望ましくないと思います」〈安井建築設計の報告書を褒めまくり〉。「また、この建物は②外装材ですが、私も昔から見せて頂いているが、とても綺麗な茶色い外装で鉄骨ですので上手く地震の時には、熊本地震がここで震度7がなかったのが幸いかと思いますが、変形が追随出来たかと。そういう意味で周辺の鉄筋コンクリートの建物に比べるとひび割れ等がないのがよく分かると思います」〈震度7があったとしても大丈夫。たら、ればを学者が使うな〉。「又設計時の検討値、診断時の資料を見せて頂くと過去に部材の外装材が追随出来るか。検討も実験等で行っているようでその辺もうまく作用したのかな、というのが私の印象です」〈貴方の印象はどうでもよい、十二分に検討の上建設されたから被害がない。それを大西市長が建て替えると云いだしたから筆者は反対している〉。「杭の検討です。この建物の伏せ図を検討資料の中で見せて頂きました。15階建ての建物、その建物にしては杭の太さはそれ程ではないと思いますが、杭の量は比較的多いのは図面を見た中で私も印象があります。当時の設計者はそれをちゃんと支えようという意思で一生懸命杭を増やした。杭は値段が高いのでそれをちゃんと入れたんだなという気がします」〈山下設計を小バカにしている〉。

 その後も「民間で古い杭の上に新しい建物を建てた事があるがそれは建主が希望したから。ただ市庁舎ですので使うか使えないかを専門家、杭の専門家に確認した上で再度使う事は可能と思います」など訳の分からん事ばかり饒舌に語るばかりだ。面白いのは「新聞等を読みますと『建て替えありきみたいな事が書かれている』内容も見せて頂きましたが」とあるのは、明らかに熊本県民新聞の内容である。“建て替えありき”は小紙しか書いていない。髙橋先生、御参考になりましたでしょうか(笑)。「私の見る限り資料では特に困難というよりコストパフォーマンスもしくは性能パフォーマンスとして建て替えの可能性も高いのではないかと思います。以下略」。

 議事録を見る限り齋藤氏の「建て替え不用論」が集めた資料も豊富で信頼に足る説明だ。髙橋氏は正論(建て替え不用)を論破するには資料不足で饒舌ばかりが目についた(議事録の平仮名は筆者が漢字に直した)。



熊日の論調変わった
中立性報道を期待
 熊本日々新聞社の熊本市政や県政についての報道について“官側に傾いている”というのが筆者の認識であった。特に市庁舎建て替え問題については「市の広報紙と同じではないか」と怒りのままに筆を走らせた。冷静に見れば現在の記者は自分で考えなくてもよい環境で育っているのである。各記者クラブの記者は関係官庁の発表資料をそのまま記事にするだけの習慣が身についたのだろう。そう思えば6月6日の記事も納得する。市庁舎問題に限れば、その後も似た報道がなされていたが、8月2日に議会自民党が参考人として招致した広島国際大の元教授が見解を述べてから熊日の論調が少し変わった感を受けた。

 特に12月19日付「編集委員リポート」の記事は中庸で真実を衝いたものであった。筆者など及ぶべきもない筆致でもある。「細かい分析、工夫必要」の見出しで熊大名誉教授も常識的コメントで、建て替えの緊急性には言及していない。「現在の建物は行政棟として残し、花畑別館跡地に免震構造の拠点をつくるのも選択肢だ」は、小紙に筆者が書いた記事と重なる。市民の税金400億円以上を使う建て替えである。検討に時間を掛けても掛け過ぎはない。当然と云えば当然だが、熊日の記者や社員の中に市庁舎建て替え賛成派と否定派が居る事が最近分った。派とするには一寸抵抗があるが、便宜上使わせて頂いた。熊日の社員だからといって思考が全て同方向ではないのは当然である。社内でも社業の在り方に批判的な社員も居れば“上昇志向”旺盛で同僚を貶めようとする社員が居るとも聞いている。筆者が望むのは「報道だけは公正を保って頂きたい」だけである。「筆者と同じ見解でない者は敵」と思う程筆者は狭量ではないと思っているんだが。



透明性に欠ける市の建て替え論
市民への説明も場当たり的
 熊本市が昨年6月~8月に「市役所本庁舎に関する説明会」を市内17カ所の公民館、市の施設で開いたが、各会場の出席者は数名~10名前後であった事は前にも書いた。これでは説明会の体をなしていないのは自明であろう。それに懲りず同じ事を2月から開く予定と聞いた。大西執行部は「これで市民には充分知らしめた」という証しにでもする気か。現庁舎建設の際熊本市は2回広聴会を開いている。昭和47年11月の広聴会は各界代表、学識経験者を対象に開催。商工会議所会頭、大学学長、新聞社社長、文化人代表、婦人会代表、青年会議所理事長、社会福祉協議会副会長、地区労協議会議長らの発言を要約して記録している。同11月28日は主婦、会社員、商店主ら8名の意見を要約しているが、反対の意向を示した者は一人もなかった。

 翻って大西執行部の進め方はどうか。平成30年6月5日、メディアに「耐震不足の為震度6強の地震が起きると庁舎が傾く恐れがある」と突然発表した。その上、今後の案として補強、現地建て替え、別の土地に新築移転と、誠に痒い所へ手が届く計画書まで作成していた。これを鵜呑みにした新聞、テレビ各社は翌日大大的に報じたので初めて市民の知る所となった。

 現庁舎建設時の情報開示と市民説明会の透明さに較べ濁った独断専行であろうか。その底に見えるのは大西市長の「何が何でも建て替える」個人的意向が働いているとしか思えない。市の説明も「耐震基準を満たしていない」であるが、これは小紙で何度も書いている様に“違法”ではない。市が云う「大規模改修は困難」は建物ではなく基礎杭ばかりを挙げている。この言を勘繰れば「地上の建物に損傷がない、これを建て替えると云ったら市民から猛反発を食う」で考えだしたのが地表から見えない「地下杭の損傷」である。近年地下など見えない土中や、鉄筋コンクリートの内部を超音波を使って検査する機器が発達したと聞く。安井建築設計もこれらを使って検査したと思われる。その結果を市民や学者が「信用出来ない」と云っているのである。ならば熊本市はもう一度検査機関、設計事務所を公募して最低でも2機関に再検査をさせたらどうか。勿論議会側も独自に2機関を選出して依頼する。これが公平というものではないか。

以前市は「耐震性がない」と云っていたが最近では「説明で使ったのはシミュレーションだった」と云いだした。「改修だけでも222億円かかる」と云っているが、これはこれまで築10年、20年、30年の間に当然行うべき整備を行わなかったから出て来た数字ではないか。民間マンションでも改修、補修に備えて毎月積立てを行っている。市が整備、補修を37年間行わなかった、という事はそれだけ建物が丈夫に出来ているという事ではないか。「防災拠点とならない」とも云うが、建物全体で拠点化は無知と云うもの。三井教授案で丁度よい。


 東京理科大の髙橋治参考人が市議会特別委員会の中で褒めた市庁舎外壁について述べる。「建設の記録」の中で記されているが、この外壁は「大型炻器質タイル打ち込みPC版」と呼ばれる庁舎建築で特注された物である。高温で焼いたタイルをプレキャストコンクリート(PC)に直接打込む工法で、1枚の広さは各階分の高さ3.5m、横2mのパネル版を作り、現場で鉄骨に取付けている。従ってひび割れの可能性が少なく先の熊本地震にも充分耐えたのである。



 上掲の熊本県民新聞は、平成11年6月号2面である。岡留安則編集長が自ら公言して憚らない“スキャンダル雑誌”「噂の真相」が同年5月号(発売は4月9日)で暴いた「則定衛東京高検検事長の女性スキャンダル」を載せている。筆者は小紙発行後間もない平成7年に「噂の真相」を書店で購入、一気に「岡留ファン」になった。噂の真相は同年10月号で、東京地検特捜部長宗像紀夫氏とパチンコ業者との癒着をスクープした。

 その頃、筆者もパチンコ業界と県警の癒着を暴こうとしていたので、一部記事を転載したい旨電話で岡留氏に伝えた。見も知らぬ田舎新聞の申し出を快く受入れ転載許可を貰った。その後彼が全共闘世代であること、当時の仲間が官公庁に中堅として居るので情報が豊富等を知った。仲間はメディア業界にも相当「潜り」込んでいる様であった。その後も一読者として噂の真相を愛読していたが、上掲の小紙発行の2カ月前岡留氏と直接会談した。筆者の上京日が分っていたので事前に手紙で連絡したが、その手紙の中で筆者は大東塾・不二歌道会々員で、思想的には貴方とは対極にあること等を書き添えた。

 そして上京。用件を済して新宿三丁目の「噂の真相社」を訪れた。インターホーンで名前を告げるとドアが開いた。後に聞いたがドアは常時ロック、窓ガラスは防弾ガラスとの事であった。岡留編集長の机の前に応接セットがありそこで名刺を交換した。写真で見ていた通りのサングラス姿で、外見は強面であったが話す声は穏やかで、こちらの話もよく聞いてくれた。その時数枚写真を撮らせてもらった1枚が掲示の写真で、ポーズは筆者がお願いした。2時間程で辞したが、以後毎年8月に上京した際には立寄った。

 そんな中の或る日岡留編集長が「福島さんとは皇室問題以外は意見が合いますね」と云った事がある。筆者としては反権力の固りとしての岡留編集長に畏敬の念を抱いていたのであるが、日本の皇統に関する問題は譲らず、議論はいつも並行線で終った。ある時、当時新右翼と持ち上げられていた「一水会」の鈴木邦男代表について「どう思うか」と聞いた所、言下に「私は右翼とは思っていませんよ、あの人はタレントですよ」と答が返り筆者と同じ見解であった。その後も時折知りたい情報について電話で依頼すると快く聞いてくれ「頼まれたブツ送ります」と殴り書きされた表紙と共に必要な情報をFAXで知らせて頂いた。

 噂の真相は公称20万部、総合雑誌としては文藝春秋に次ぐ堂々の2位で相応の利益を上げていたと聞く。昨年一月三十一日余世?を送っていた沖縄で肺癌の為亡くなった。享年71。





創刊23年を振り返る〈11〉
白川漁協を食った後藤守
 下の熊本県民新聞は平成11年10月号2面である。この年の5月の白川漁協総会で、30年間組合長を務めた後藤守氏は理事に選ばれなかった。白川には上流から白川漁協第一支部に始り、熊本市を流れる白川を管理する第5支部まである。

 後藤氏は龍田町の白川沿いにある家に居住していた関係で白川で鮎を獲ったりしていた。その内に漁協の組合員になり「気付けば組合長(理事長)になっていた」とは古い漁協組合員の話であった。以後小紙が動くまで組合長として収入の多くを漁協に頼った。関係者以外には余り知られていないが、各河川は国や県が管轄権を有しているが、これとは別に各河川の漁協が管理する漁業権、水利権がある。この二つの権利を最大に利用して金集めをしたのが後藤氏である。何故30年も後藤氏の横暴を組合員は許したのか。

 偏に彼の背後に暴力団の陰があったからである。後藤氏は毎晩の様に市内の高級クラブに出没したが、時には当時市内で有力暴力団と見られた大門会の幹部を同道する事もあった。そんな後藤氏の噂を聞いて筆者が動きだした頃から組合員の中から「後藤追放」の声が上り始め、先述の様にこの年の5月に開かれた第5支部の総会で理事に選任されなかった。これを知った後藤氏は大津町の第3支部で理事に選任されていたF氏を半ば脅して理事交替し、第3支部理事となった。同年5月25日に開かれた理事会で新理事長に坂口茂弘氏が就任して新体制となった。

 坂口組合長は事業部、管理部、渉外部を設置した所、後藤理事が渉外部長のポストを要求して異議申立てを行った11月18日に緊急理事会を開く事になった。その直前に左掲の小紙が関係者に配布された事で後藤氏は戦意喪失、理事も辞任した。後日談になるが、当時坂口組合長は「県民新聞のお陰で後藤が排除出来た。お礼をせなんばってんあいつが赤字を作っとるけん立直ったらきちんとします」と云う。それから3年した頃、情報月刊紙「TODAY」に「白川漁協が毎年5万円払っている」と聞いたので坂口組合長に「こちらに払うべきではないか」と云った所「すみません、忘れとりました」と云う。日時を決めた所「理事の坂田拡穂(かくすい)さんも同席する」と云ったのでOKした。当日坂口、坂田氏と会ったが、坂口氏は「購読料を3万にしてくれ」と云ったので「いいよ」と云って領収書を切った。後から坂口氏は「坂田さんから5万出すなと云われた、すみませんでした」と謝りの電話があった。以後次号に続く。




 田尻靖幹市長の略歴については連載〈上〉欄で記しているので省略する。田尻市長が就任後先ず手に付けたのは人事である。それも自分の対抗馬であった川俣芳郎氏を応援した職員や、星子市長時代に幹部を務めた優秀な人材を閑職に飛ばした。

 逆に自分を応援してくれた職員を昇格させて身辺に配した。以後8年間田尻市長は遣りたい放題に市政を運営し、私腹も肥やしに肥やした。勿論これらが彼一人で出来る筈はなく、悪徳議員らと手を結んでの上である。田尻市長の悪行は数多あるがその中から「職員の裏口採用」を採り上げる。田尻市長が当選したのは昭和61年11月、すぐ着手したのが62年度新卒採用者の増員であった。人事課は180名の採用を予定していたが、田尻市長は独断で116名を追加、296名を採用した。

 当時噂に挙ったのが「選挙で応援した人達、市議らに頼まれてばんばん採用した」である。各年の採用予定者数は、定年退職者や、必要部課からの要請に基づき、総務局、助役、市長らによって決められると聞いた事がある。その後の年度も、平成2年度200名の予定に243名。同3年度100名に115名。同4年度260名に292名、同5年度180名に245名と、どの年度も予定員数を大幅に上回っている。これらと並行して語られたのが「議員に裏口採用の人員が割当てられている」で、実力市議は10名前後、その他は1~3名である。仲介手数料も300万円と云われていたのが500万円になり、田尻市政末期には800万円と云われるようになった。

 加えてマスコミ界幹部、県警の悪徳刑事らの子弟も採用されている。市職組幹部の子女が多いのも熊本市の特徴と云えるだろう。小紙も報道しているが、熊本城事務所に勤務していた職員は妻、2人の子供が市の職員であった。これらを見ただけでも如何に田尻市政が汚濁していたか御理解頂けたと思う。女性問題も多々あるが、秘書課女子職員を強姦同様に犯し(小紙報道)た。夫も市の職員だったが田尻に将来を約され「告訴する」と云った妻を宥めた。



全国に拡がったゼネコン汚職
田尻市長三選を断念
 本面左上に掲げたのは小紙創刊号の4面の一部である。その後小紙独自のニュースソースから田尻市長が前年10月東京地検特捜部から事情聴取を受けていた事が判明した。呼び出し先は東京と熊本の中間点とも云える広島高検であった。容疑は国際交流会館建設に関わるゼネコンからの収賄である。

 発端は平成4年の金丸信副総裁の巨額脱税事件で、地検特捜部は押収した資料からゼネコン各社から中央政界、地方政界に多額の賄賂が流れている実態を把握した。立件されたのは茨城県庁舎の新築移転、県立医大新築工事に絡んで竹内藤男茨城県知事。再開発事業絡みで本間俊太郎宮城県知事。政権側では中村喜四郎建設大臣らが収賄容疑で逮捕された。贈賄側は鹿島、大成、大林を始めとするゼネコン8社。これらの建設会社は日本全国の自治体首長を買収していたが「全てを挙げるには検察の人手不足、加えて国民の政治不信を招く」として前記「宮城、茨城両県知事、仙台市長のみを“頂門の一針”として立件し、他の自治体の首長らからは『一筆』を取って事態を収拾した」と聞いた。田尻市長は広島高検に呼ばれた後三選出馬の動きが止み、3月議会で正式に不出馬宣言した。



田尻市長・後継に三角県議を指名
激戦制し 三角保之氏初当選
 東京地検特捜部との間にどの様な遣り取りがあったか不明だが、直後から三選不出馬の噂が立ち、翌年の3月議会で正式表明した田尻靖幹市長。自身の後任に御厨一熊助役と考えており、市議会自民党幹部もその線で動いていた。御厨助役も田尻市長から打診を受け「考えます」と返事をしたが、約2カ月後「私は市長の器ではない、辞退します」と田尻市長に伝えた。

  その後市議会のボスと田尻市長、御厨助役が市内の料亭で会合。市長と市議は御厨助役に「選挙資金は一切心配ないので是非出てくれ」と翻意を迫った。しかし御厨助役の意志は固く2人は説得を諦めた。3日後の7月5日御厨助役は「次期市長選には出ない」と公表した。慌てた田尻市長は直後に「全国市長会」に出席の為上京したが、市長会には出らず県選出の某代議士と懇談した。田尻市長が帰熊後会ったのが三角保之県議であった。三角県議は後援会幹部らと相談、市長選立候補を受入れた。その後流れた噂が「田尻が三角に選挙資金1億円は私が出す。あとは他から出るでしょう」であった。この時の選挙には米満弘之氏、木村仁氏、川俣芳郎氏他2人が立候補したが実質前記3氏と三角氏との争いとなった。

 川俣氏は田尻市長初出馬の市長選以来3回目の挑戦であったが有力候補の参戦で得票は5番手に沈んだ。小紙は清潔感のある米満、木村氏を支援したが、田尻後継を謳う三角保之氏は強かった。三角氏は自民党市議団(自民県連は木村氏支援)に加え公明、民主系市議の他土建業者らの支援を受け、2位の木村氏に2万票余の差をつけて当選を果した。12月7日初登庁した三角保之市長は幹部職員を前に「私を呼ぶ時は三角市長と呼んで下さい。市長さん付けはしないで頂きたい」と訓辞の中で述べ三角市政はスタートした。

 そして2期8年「沈香も焚かず屁もひらず」の市政が続いた。三角市政1期前半は田尻靖幹前市長の操人形よろしく、幹部人事などは田尻氏の云いなりと云われた。しかし、2、3年経った頃から自分の意志も通す様になった。彼の1番の欠点は「変態的酒癖の悪さ」で、「自分が穿いている靴下を丼に入れ、そこに酒を注いで先ず自分が飲む。その後部下達にその丼を回し飲みを強いる」こと、とある幹部から聞いた。好人物の為職員達は田尻時代の疑心暗鬼から解放された。反面職員の志気は低下、不祥事も続発、2期8年間の不祥事は18件と他の市長に比べて多かった。

 議会との関係も良好で(という事は馴合い)あった。当然3期を目指しており、平成14年の3月議会で3選出馬を表した。対抗馬と考えられたのは共産党からの立候補だけで無風選挙に等しいと思われていた。所が9月議会中の9月12日、自民党県議の幸山政史氏が突如として「出馬」を表明、三角市長、島永市議らを慌てさせた。すぐ選対本部を立ち上げたが、当初は「幸山は次期を狙っての出馬」と甘い見方が大勢であった。しかし、選挙戦が進むにつれ危機感が増し、政党、商工界、建設業などの引締めを図ったが、幸山氏に1万6千票程の差をつけられて敗北した。敗因の一つにこの年の正月、市幹部とメディア関係者の新年会でKKTの報道担当者と大口論。以後KKTが攻勢を掛け、海外出張で三角市長が公費で口紅など購入した件などを報じた。この一連の報道が“三角離れ”を生み、中間層の票が幸山氏に流れたとされる。




 3面の「『噂の真相』岡留編集長死して一年」に掲載の小紙は、紙面の都合上小さくなった。従って記事の内容も充分に読み取る事は出来ないと思うので、紙面の概要を記す。噂の真相は平成7年10月号の「自由な言論」で東京地検特捜部長宗像紀夫氏のパチンコ業界との癒着を暴いた。

 宗像氏は平成4年8月、パチンコ機メーカー幹部、京阪のパチンコ店経営者らと東南アジア旅行に行った。約1週間だったが、その間泊ったホテルは超高級ホテルで、夜は高級クラブで接待を受けた。この事実が報道されても地検担当の記者クラブは動かなかったばかりか、3年後宗像特捜部長が大津地検検事正として赴任の際、新横浜駅まで見送り、花束を贈った。検察担当記者クラブと検察の癒着である。この前例があった後、東京高検検事長則定衛氏の女性スキャンダルを噂の真相が暴いた。この時検察幹部は宗像氏の前例に鑑み「書かれても大きく影響する事はない」と見ていた。が今回は違った。朝日新聞のM記者が噂の真相を訪れ、記事に「噂の真相」とクレジットを入れる事を条件に取材、噂の真相発売日の朝刊トップで報道、則定検事長は当日中に辞任を決意、四日後に辞職した。
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