熊本県民新聞 WEB版
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熊本市東区八反田1丁目14-8

発行者:福島 宏

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 1年前の県知事選で蒲島郁夫知事が4選出馬を表明。対抗馬は前回と同じ幸山政史前熊本市長であった。勝負は余りにも明々白々であったので小紙は完全に無視、論評一つ行わなかった。筆者の気が変わったのは昨年9月、何気なく熊本県のホームページに目を通していたら平成25年9月25日付知事の記者会見/ようこそ知事室/の最後尾に質疑応答があった。「熊本県県民新聞について」の見出しで、Q「知事すみません。熊本県民新聞さんが、虚偽の事実で名誉を傷つけたとしてですね、知事が訴えを起こされていますけどコメントがあればお聞かせ下さい」蒲島知事「はい。熊本県民新聞さんが全く120%覚えのないことを新聞で報道されました。それで、私としては6月に削除を求めました。削除を求めた段階で善処されていればこのようなことはなかったと思いました。以上です」とあった。

 この言、嘘ではないが肝腎の要求が抜けている。WEB記事の抹消と共に「謝罪広告」を要求していたのである。それも蒲島側が作成した文言を「トップに掲載せよ」というものであった。筆者としては悪意はなく、「こんな噂がありますよ」といった軽い気持で数行分書いたもので「相手の云いなりの謝罪文」に納得出来なかったので司法の判断を仰ぐ方法をとったのである(結果は読者の皆さんも御存知の通り完敗したが)。提訴された当時市政、県政担当の各社の記者に「あの記事で告訴された」と話したら「えっあんな記事で告訴されるの?」と驚いていたが、その延長線上で蒲島知事への質問となったのであろう。で、あの回答にカチンときたので「蒲島知事批判」の再開に踏み切る“勇気”が出て来た。

 大分横道に逸れたが、1年前の「蒲島4選」について。戦後、熊本県知事は官選で就任した桜井三郎が公選法施行で昭和22年に立候補して当選、以後3期務めた。桜井が4選を目指した事から県連が猛反発、寺本広作参議を立てた。県政史に残る激戦の末寺本が勝利したが、この選挙戦で県議は勿論、県職員や町村長までが分断された。この事が“教訓”となり、自然発生的に「知事は3選まで」の不文律が定着した。それが何故蒲島に限って適用されなかったのか。そこに前川県議と蒲島の蜜月が見えてくる。かつて中選挙区制の時、自民党県連会長は国会議員が就いていた(河津寅雄を除く)。だが小選挙区制が施行されると国会議員の力が低下した。代わって出て来たのが「自民党県連会長は県議団から」の声で、以後その流れが今日まで続いている。

 現在の県連会長は前川收。平成19年に当時の県連会長古閑三博が2期4年の任期を迎えた為、県連は次期会長を選定する「会長選考委員会」を開いた。その結果、山本秀久を会長に選出。山本会長が前川を幹事長に指名して他の役員も決まった。以後5期10年に亘って山本、前川体制が続く事になる。県連幹部人事は1期2年で、大方は2期務めたら後進に道を譲るのが一種の約束事の様になっていたが、山本、前川コンビは5期10年、県連を牛耳った。3期、4期と続く中、某県議が「山本会長は飾りたい県連は前川が動かしているのが実態だ」と語ったのを憶えている。山本会長が高齢で、体調を崩して引退後は前川が会長に就き現在に至っている。蒲島郁夫が東大教授から熊本県知事に転身を図ったのが平成20年3月の知事選である。自民党県連は2期目の現職潮谷知事が3選を目指すものと見ていたが、潮谷義子は平成19年12月議会で突如「次期知事選には出馬しない」と表明した。

  不出馬理由は「知事の仕事は気が抜けず3期までやると燃え尽きる。余力を残して福祉の仕事をしたい」(熊日紙)であった。が、真相は当時小紙が報道した、潮谷の夫が施設長を務める慈愛園内の「セクハラ」問題であった。潮谷の表明がいかに唐突であったかは、当時潮谷後援会「さやかの会」幹部の言を聞けば分る。「私達は潮谷知事が3期目も務めると聞いていたので頑張っていました。私達に一言もなく、県議会で表明したのですから私達への裏切りと思っています」と語った。潮谷3選不出馬で一番慌てたのが自民党県連で、「潮谷3選」は既定路線であった為、他の候補者は考えてなかったのである。



潮谷後を目指し候補乱立
九電 松尾会長の一言で蒲島急浮上
 この時の自民党県連は、6月の党大会で選出された山本秀久会長、前川收幹事長体制に移行したばかりであった。潮谷不出馬表明の翌日知事候補に手を挙げたのが平成16年の参院選で落選した北里敏明で、県連に自民党推薦願いを提出した。そこで云われたのが「選挙資金2億円が準備出来るか」であった。官僚上りの北里にそんな大金が出来る筈もなく、党推薦を諦めた。後に自民党籍も返上、無所属で出馬する。外に県連で挙った候補が崇城大学長の中山峰男である。中山は県連から「選挙資金3億円出来るか」と問われ「出来ます」と回答、出る気は満々だったが、遠縁の佐々淳行(中山の旧姓は佐々、中山義崇前学長は娘ばかりであったので婿養子で中山家に入った)に一蹴された(佐々淳行は北里を支援した)。又、家族も猛反対した為出馬を断念した。中山と共に候補に挙ったのが蒲島郁夫である。熊本では無名に近い蒲島が何故知事候補に上ったのか。その経緯について亡村上寅美に訊いた事がある。

 村上は「親しくしていた九電の松尾会長と九州議長会の講師について相談した時、松尾会長から『東大教授の蒲島が適任ではないか』と云われ、その後福岡で蒲島と会ってOKを貰った。お陰で熊本で開かれた『九州議長会』で講師をしてもらった」と語った。続けて村上は「潮谷の3選不出馬表明が余りにも突然であったので県連はそれまで後継候補など考えてもなかった。その後大久保、古荘、平井ら経済界の若手は北里を支援していて「公認がとれないか」と云われたので私の議長室で山本会長、前川幹事長、児玉県議らと昼食会の中で話を出したが『総スカン』だったので大久保(フンドーダイ社長)に伝えた」と語る。その後村上は公用で上京した際蒲島と会っている。恐らくこの時に蒲島から「宜しく」となったと思うが村上からは何も聞かれなかった。

 12月19日民主党県連幹部が蒲島と接触、蒲島は「考えさせて戴きます」であった。これを知った自民県連は山本以下幹部が20日に上京して蒲島に出馬を打診した。蒲島は「前向きに検討させて戴きます」で、村上は「感触は良かったが、私の勘では自民、民主相乗りを希望していた様だ」と後に筆者に語った。蒲島知事実現には、自民県連に加え九電の松尾会長が大乗り気で資金、人材等の提供を確約した。蒲島が出馬を承諾したのは投票日が迫った1月初旬であった。



自民党県連を批判した小紙平成20年2月号



 東京五輪組織委員会の森喜朗会長の“女性蔑視”発言が炎上した。発端は2月3日の日本オリンピック委員会の臨時評議員会で「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかります。これも内の恥を云います。ラグビー協会は倍の時間がかかる。女性が今5人(理事のこと)か。女性は競争意識が強いので誰か一人が手を挙げると自分もやらなきゃいけないと思うんでしょうね」とやった。

 評議委員会なので、恐らく女性評議員や女性理事を増やす議題が出た後ではないか。この発言が表に出るや一斉に「女性蔑視」の声が挙った。翌日記者会見して「発言撤回」をしたが、高飛車な物云いで記者達の反感を買い“森叩き”が増幅する。高があの程度の発言で「会長辞任」まで追い込む程の重罪であろうか。女性蔑視と云うより、筆者に云わせれば「女性軽視」発言である。

森氏自身、その意識さえ念頭になく、思いつくままに出た言葉ではないか。現役時代から失言の類が多かった森氏だ「あっ又やったか」と思った筆者だが、森氏の立場を考えると発する言葉でないのは常識。あの発言で、病躯をおしながら五輪招致に向けて動き、“森氏ならでは”の功績が水泡に帰した事は自業自得とはいえ哀れを誘う。近年「男女平等」「もっと女性の社会進出を」「女性議員を増やそう」といった運動が拡がっているが、今回の“森叩き”もこの線上で軌を一にしている様に思える。



 1面に書いた様に蒲島郁夫は“確実なる当選”を約束されてOKを出した。落選した時の不名誉をプライドが許さなかったのか、より好条件を狙ったのか。村上の他、自民党幹部が何度も上京して説得した“蒲島出馬”に自民県連は総力を注いだ。選挙資金も丸抱えの上、運動員には各県議や首長の後援会、九電と九電傘下企業から多くの人員が動員された。その結果、他の4候補の合計得票数に匹敵する23万余票で快勝、行政経験ゼロの学者知事が誕生した。

 この選挙戦で、蒲島陣営は川辺川ダム問題については当初「建設推進」を謳っていたが、他の4候補が「ダム建設反対」をマニフェストに掲げた為、選挙戦直前から「ダム問題は保留、当選後検証機関を立ち上げ9月に判断する」に変えている。自民県連はダム建設推進が大方で、潮谷知事も本音では中止であったが、2回の選挙が“自民丸抱え”だった事もあって云い出せず、「地元の判断に」と投げ出していたのである。その潮谷県政唯一と云っていい成果が県営荒瀬ダムの撤去であった。が、蒲島は当選後すぐに「撤去の凍結」を唐突に公表(その後再稼働を指示)した。この件について小紙は「選挙で世話になった九電への配慮か」と批判している。

 選挙の目玉であった「給与の100万円カット」も当選直後の4月から実行されたが、この案件については同年5月号で小紙が裏事情を暴いている。「県政任せて大丈夫? 蒲島知事の危い体質、給与カットの裏事情」の見出し。

 ここで弁解しておくが、筆者が蒲島を知ったのは知事選からである。筆者の身上は「人の噂で相手を判断しない」である。自身で直接、間接に係って判断する。蒲島については選考過程、選挙戦で不明朗な話は耳にしたが、それで蒲島という人物を判断した訳ではない。その証拠に初批判を始めた5月号の前月、4月号編集後記末尾に「蒲島知事については未知数の愉しみがない訳でもない。蒲島でよかったと思われる県政を行ってもらいたいとの願いもゼロではない」とはっきり記している。それが何故次号で大批判となったのか。その間に蒲島の陰の部分が見えて来たからと云える。前の見出しの本文は「100万円カットは議会の承認を得て実行された。ボーナスについては議会側が『現行通り10%減にとどめる』と修正した」とある。これは選挙中ボーナス全額カットを謳ったが、その時蒲島は知事の報酬を220万と勘違いしており、知事に就任してから120万と知った。従ってボーナスを返上すると「資産が減る」と思ったのか「ボーナスは10%カット」と変更、議会が修正に応じたという次第だ。

 自身の給与カットを手本として翌年度から県職員の給与3~7%カット、職員の削減を実行したが、自身の100万円カットは1年(翌年は給与のみ50%カット)であったが、職員の給与カットは3年間である。痛みが大きいのはどちらか自明であろう。
(敬称略)



初当選直後から
県政私物化狙ったか
 蒲島郁夫が知事就任後すぐ行ったのが東大教授時代のゼミの教え子小野泰輔を「政策参与」として登用する事であった。小野登用は“勝つ知事選”の最中から考えていたと推認出来る。と云うのは当選直後の平成20年3月25日付朝日新聞熊本版に「県幹部外部登用も」の大見出しと脇見出し「知事初当選蒲島氏が構想」の記事の中で教育長ら県関係の幹部人事について「東京の人脈もいかしたい」と述べているからである。

 そして4月には小野泰輔(33)を「政策参与(知事補佐担当)として登用した。小野は東京都出身、東大法学部卒業後外資系の「アンダーセンコンサルティング」勤務後、当時民主党の藤島正之事務所に私設秘書として勤務したが1年程で退職した。その後「明豊ファシリティワークス㈱」に勤務中蒲島に誘われて前記熊本県政策参与となった。「明豊時代の年収は2000万円あった」と云われたが、県参与の年収は700万余で「1000万円余の収入を捨ててまで来るメリットがあるのか」と県幹部の間で話題に上った。当時の副知事は県庁生え抜きの村田信一と、蒲島が直接任用した総務省の兵谷良康の2人で、県政について蒲島は村田に“頼りっ切り”であった。

 そして4年。平成24年の知事選で再選を果たした蒲島は同年の6月議会で小野泰輔の副知事任用案を議会に提案、可決された。この時、蒲島は県連幹部に連絡していたが、多くの県議が人事案を知ったのは提案2日前であった。当然県議の中から“県政の私物化”だと反対の声が挙ったが、前川收、村上寅美らと対決する勇者は出なかった。小野は「県南の農産業の振興担当」とされたが、大した実績がないまま本年6月蒲島と訣別、都知事選に出馬した。



蒲島 出馬要請に勿体振るが
知事の座が最終目標だった?
 前にも書いたが蒲島郁夫が熊本県知事選に出馬した経緯は、これまでの知事候補と比べて非常に不明な点が多かった。潮谷知事の突然の不出馬宣言の後、自民党県連で一時北里敏明に傾きかけた事があった。前に「北里が選挙資金2億円が出来なかった」のが原因と簡潔に書いた。それも事実であるが、北里が出馬宣言をした後、自民党全国青年部が日本各地で一斉に街宣活動を行った。熊本でも遊説隊が街宣を行った。この街宣に北里が「俺も演説に加えろ」と申し出たものの「主旨が違うから」と断られた。これを不服とした北里と自民党県連の一部の幹部との間に溝ができて候補から外されたと聞いている。村上によれば「北里の後蒲島と中山が残ったので何度か双方に会って最終的に蒲島に決まった」となる。村上は「県連で決めた」と云ったが、県連最高顧問の沢田一精、県連副会長を務める市議会の重鎮島永慶孝らは「政治経験が豊富な北里」を推し、支援した。

 蒲島については別の情報筋から「蒲島は以前から熊本県知事を欲していた」と聞いた記憶がある。もしこれが事実なら蒲島の人生最終目標は東大教授という学究ではなく、貧困の中で幼少年期を過ごした熊本に錦を飾る事ではなかったか。“男の夢”を思えばこの推測も大きく的を外した事にはならないだろう。蒲島の思いがそうであっても先ず受け入れる熊本県に蒲島は人脈がなかった。当然であろう。旧稲田農協職員の時、農業研修生として米国ネブラスカ州の牧場に行ったまま地元には戻っていないのだ。但し蒲島本人の略歴の中で平成19年8月~20年3月まで県立大の客員教授となっている。が、当時の同大職員に聞いても「蒲島教授」が「どんな講義を行ったか、居たかどうかも知らない」と語っていた。“知事選出馬の布石”とすれば納得がいく。何度も書くが、蒲島出馬の際の九電関連企業を中心とする「福岡七社会」の支援はこれまでに類を見ない出来事であった。

 小紙平成20年3・4月合併号(4月20日発行)でもこの時の知事選を報道している。「県知事選顧みて 蒲島圧勝自民総力選で臨む 福岡七社会から資金流入」の見出しで蒲島と福岡七社会の繋がりに加え、村上(当時県議会議長)も七社会から福岡に在る「村上後援会に政治資金の提供を受けている」と書いた。後に村上を七社会に結びつけたのが古賀誠代議士だったと聞いた。道路族としての古賀の力は絶大で佐賀~福岡~熊本を結ぶ通称「沿岸道路」で福岡が先行したのは古賀の功績と聞く。熊本は村上が「期成会々長」であった。余談中止。

 同号4面の中見出し「福岡七社会に救われた自民県連 蒲島支援で物量作戦奏功」として資金援助は勿論、人材の大量動員が行われたと報じた。この選挙の際自民党県連に資金が乏しかったのは、北里、中山に「選挙資金を準備出来るか」と聞いた事からでも明かであった。蒲島にとって初陣となるこの選挙で自民党県連の焦りは相当なものであった。蒲島の希望もあってか民主党県連に「相乗り」を申し入れたが、この頃勢いがあった民主党県連に断られた。その票が北里に流れるのを恐れたが「潮谷が推した鎌倉孝幸(元県地域振興部長)推薦と決まり安堵した」と当時の県連幹部から聞いた。

 この選挙で蒲島は圧勝したが、岩下を除いて4人の有力者が出馬した選挙にしては投票率は上がらず50%を切った。蒲島再選の平成24年の知事選は38%余と過去最低を記録、蒲島信任とはならなかった。その後3期、4期と続く訳だが、“蒲島が狡い”と読むのは各期の選挙前の意志表示である。2期目など特に“勿体振”って、自民党県連の出馬要請を保留「残り半年を120%の力で走る。政治家は自ら求めるのではなく時代が政治家を選ぶ」(一部省略)(熊日23年9月16日)や「県民から選ばれれば出てよい」と取れる発言が目につく。この発言を筆者は「空々しい」と受け止めていたのだ。古参県議から「次も蒲島たい」と聞いていたからである。(敬称略)
(4面に続く)



蒲島氏が初出馬した際、ホテルで開かれた激励会で挨拶する蒲島氏と案内役の村上寅美氏。



 小紙が熊大附属小学校6年×組の学級崩壊(下に掲げた)を報道したのが昨年の3月。大方は同中学校に進学するものと見られていた。が小紙の報道で“余りにもひどい事実”を知った学校側が“いじめ”を厳しく評価「いじめ5人組」の内、附中に進学出来たのは首謀者と目されていた1人だけであった。残りの4人は学園大付中、真和中などに進んだが以後の消息まで追う必要はなく、あの一報で終ったつもりだった。

  所が昨秋、九州内の某県居住の人物から思い掛けない電話を頂いた。仮にA氏としよう。「自分のクラスでいじめが深刻になり解決法はないものかと悩んでいてネットを検索していて熊本県民新聞のWEBを見つけた」と云う。「いじめはあるが、首謀者が誰か分らず対処の仕様がなかった。担任も疲労からか夏前には休職してしまいました」と切実に訴える。小紙のWEB記事を読んでやっと納得出来たと云う。「6年2組で間違いないか」というので「そうです」と答えたが、小紙には「×組」としか書いていなかったので何らかの情報は得ていたのだろう。「小紙を送ってくれ」と云ったので使い道を聞くと「先生にそっと渡します」と云ったので「それは不味い」と云って種々アドバイスをして小紙を送った次第。

 その学校に誰が進学したのか附小時代の関係者に聞いた所「いじめ5人組の内の一人が進んだ」という。その学校は比較的新しい私立の中高一貫校で「少数精鋭主義で全寮制」という事も分った。附小からは数人が進学しているが、その中の一人が小紙で報道した5人組の中で学級会計係をしていたHの娘Rである。RもLと一緒になっていじめをリードしていたと云われ、入学した中学校でも早速“実力”を発揮したらしい。A氏の話ではRがリーダーで、他の生徒を唆している様でA氏の子供も被害者の一人らしい(A氏は云わなかったが)。この問題どうなったか事後報告がないのでここで終る。





副校長ら更迭
新体制奏功
 モンスターペアレント5人組が卒業した附中では、副校長を更迭して新体制で新年度を迎えた。「5人組が居なくなって嵐が去った様に静かになった」と同小のベテラン教師の話だが、その後も小さなトラブルは続いていると聞く。熊大側も今後の学校運営を鑑みる中で現行の組織の改革を考えている様で、飾りだけの“大学教授の校長”制を廃止、実務者が校長を務める事になるようである。
 所で「面白い」と云ったら森元首相の様に叩かれるかもしれないが、運よく?附中に進学したいじめグループの中心人物Lの事だ。5人組の中で只一人附中に入ったので反省でもしたのかと思いきや、現実は逆で早速“いじめ作業”を開始したのである。所が小学校と違って附中は“L対策”を講じていた。Lの担任にベテランで筋を通す女性教師を配していたのである。早速Lを呼び付けて厳しく指導を行った。以後Lの言動は収りクラスの平穏が保たれているという。



 熊本市役所本庁舎建て替え問題が新展開した。熊本市は市役所本館の耐震性について熊本地震発生後に建物本体について安全性を確認していた。その後、何故か設計会社に「地下杭の安全性」ついて調査を委託した。その結果は「行政棟(本館)の建物を支える地中のくい160本中50本が致命的な損傷を受け、建物が傾く恐れのあることが判明した」「現行法が求める耐震性も満していない」と公表した。公表と同時に4つの建て替え案を準備するなど、誠に痒い所に手が届く心配りであった。

  大西一史市長は「これで俺の思惑通り建て替えが進む」と思ったかどうか知らないが、良識ある市民や市議会議員から「建て替え不用論」や「納得出来る説明がほしい」の声が上がった。特に市議からの「納得出来る資料と説明がない」強反発は予想外であったと思う。で、次に打った手が「再度地下くいの安全性を調査する」であった。驚いた事にその再調査を何と現庁舎を設計した㈱山下設計九州支社(成田憲泰支社長)に委託したのである。令和2年4月6日付「本庁舎の基礎杭及び地下連続壁の効果等に関する耐震性の検証業務委託」である。その山下設計が出した検査結果は更に驚くべきものであった。「庁舎を支える159本の杭の密集効果を加味した解析でも耐震基準は満さず全ての杭が致命的な損傷を受ける」「地下連続壁の耐震効果はない」と断定した。

 この結論は43年前に(株)山下設計の社長以下旧庁舎の設計に携わった社員や設計技師を侮辱する愚論であろう。もしこれが事実なら近い将来関東地方を襲う「東京直下型地震」に山下設計が携わった「霞ヶ関ビル」は大丈夫なのであろうか。



ボロを出した山下設計
 この山下設計の詭弁はすぐに曝かれた。熊本市が保有していた現庁舎建設設計図にも、基礎杭を囲むように厚さ60㌢深さ19㍍の連続壁があり、「これが地盤補強となっている」と記されている事が判った。市側はこの事実を知っていながら、これまでは単なる“防水壁”であり、「コンクリートの強度も不明、耐震性に考慮する規定もない」と云い逃れてきた。議会特別委員会に出席した斉藤幸雄参考人も「建て替え無用論」の中でこの連続壁についても「この壁は地盤補強になっている」と説明していた。
 先頃特別委員会の調査で担当課長がこの設計図を隠していた事を認めて謝罪した。庁舎問題で市がコメントを求めた、熊本建築構造センター理事長、三井宜之熊大名誉教授にも前記資料の存在を明していなかったのである。この「連続土留壁工法」は当時各ゼネコンが研究していたが大成建設が特許を取得したばかりで「実験の意味もあって採算抜きで施工した」と元山下設計の社員。「耐震効果はない」と断じた山下設計さん、市に忖度し過ぎでは?。



市庁舎建て替え引き金
自民党市議団分裂
 熊本市議会の最大会派である自民党が2つに割れた。当時各メディアはこの分裂劇の原因を「無所属議員を自民党に受け入れるか否かで意見が合わずに受け入れ側と拒否する側に割れた」と報道した。それも原因の1つと云えない事もないが、眞相は市庁舎建て替え賛成か反対かであった。賛成、反対は筆者の端的な表現である。

 賛成の某議員に云わせれば「今補強して使っても30年後には建て替えねばならない。だったら今建て替えた方が特例債も使われるのでいいと思う」と語った。この論理に皆さん納得出来ますか。筆者が「反対派」と書いた市議の思いは「私どもは全面否定しているのではない。建て替えるならそれだけの資料を出して説明をしてほしい。震度6強(と思われる)の地震は3日間に数回あっている。それに耐えてびくともしなかった建物を財政難の今建て替える必要があるのか疑問だ」と語る。要するに建て替えを全面否定はしていない。今がその時期か、他に補強という方策もあるではないかと云いたい様である。

 市民はどうか。筆者の判断による“中等以上”の知識層の者は「建て替えの必要はない」である。低知識層の人は「次の地震に耐えられないのなら建て替えて新しくした方がいい」と何人かから聞いた。自民党市議団は分裂したが、この件を除いて同一方向に進んでいる様だ。

 ここで大西市長の人間性が分る事例を挙げる。新型コロナ発生前だが、大西市長は帯山校区町内会長の集いで庁舎建て替えの必要性を訴えた。これが逆効果で「前の地震でびくともしていない庁舎を建て替えないといけないのか」と猛反発を喰らった。で、大西市長から出た言葉は「私はどうでもいいと思っているが、市議達が建て替えが必要と云うものですから」であった。この声録音されてまっせ。

 去る2月13日付熊日紙は市庁舎建て替えについて「大西市長は12日市役所本庁舎整備について『ゼロベースで議論を進める』と述べた」と報じ、大西市長は「有識者会議を設置し、冷静に、客観的に、フラットに議論してもらう事にした」と語っている。市主導の有識者会議の無能さは過去に証明済みである。



4選 自民県連フル稼動
蒲島安心して“職務専念”
 2面より続く。蒲島知事の任期が1年切ると地元紙が「次期出馬について“忖度記事”」を書く。この記事についても常々「嫌らしい」と感じている。筆者の様な「奴」(書かれる側がよく遣う)でさえ、県職員、県議から漏れる情報、蒲島の言動で「次も出るな」と確信出来る。ましてや県庁内に立派な室を持つ「県政記者クラブ」のテレビ、新聞社の記者に情報が入らない筈はない。県幹部、県議らとの「食事会」も年に何回かある。情報源が筆者より太くて当然であろう。

 蒲島が初出馬から今日まで「知事として一党に偏らない政治を行う。私は県民党です」と宣うが、初回から4選までの選挙は自民県連丸抱えであった事は小紙で何度も報道している。1期目を半年残した或る日の熊日「蒲島氏決断迫る」の横見出しの下、まだ出馬の意思表示をしない蒲島について報じている。その中で「党県議団の村上寅美団長も『1期だけで辞めてもらっては迷惑だ』」の言を引き出しているが、この直前に筆者は村上県議とヨーマン内の「村上寅美事務所」で会っている。その時筆者が「次も蒲島でしょう?」と投げると「うん、川辺川は気に入らんが、学者らしい勉強家でよく頑張っているので替える理由はない」と回答している。この頃筆者は県職員や、一部の建設業者から「蒲島知事は村上県議の云いなり」聞いていた。初回選挙から自民県連、村上寅美に“おんぶに抱っこ”では「それもありか」と納得していたのである。その後益々蒲島と村上の仲は濃くなる一方で、蒲島と前川收の絆も深まったのは“関係者”のよく知る所だ。

 筆者が「改選期が近まっても蒲島は勿体振って出馬表明が遅い」と受け取ったのは各改選期熊日紙が報道する「まだ熟考中」とか「出馬は自分が決めるものではなく県民や、時代が決める事だ」(要旨)という蒲島の発言に疑義を持つからである。蒲島が本当にそう思っているかどうかは第3者たる筆者が知る由はない。だが、蒲島周辺(県庁幹部、県議、県政記者)を見ているとよく分かってくる。県議らは「阿吽の呼吸」で出馬を察し、県幹部らは「蒲島の言動で『次も…』と推察出来る」と聞いた。それが自然であろう。4期目は「早々に決まっていた」とは前川に近い関係者。前川は「次も蒲島でいく」と1年以上前に発言している。その前川だが仕事熱心の余り、昨年6月2日父が重篤にも拘わらず県連に“出勤”していて午後帰宅した時には既に亡くなっていたという悲話も聞いた。

 で、蒲島の4選だが、県は選挙前年の令和元年7月28日付熊日紙に「見開き」の大広告を打っている。「熊本地震で被災されたみなさまへ」と銘打ったこの大広告は熊本地震の被災者を対象としたもので、蒲島の上半身と「すまいの再建を6つの有利な支援策で後押しします。知事として私も最大限頑張ります。一緒に頑張りましょう。熊本県知事蒲島郁夫」の自筆があり、被災者を励ます心の籠もった広告である。これを「4選に向けたPR」と見るのは世を拗ねて見る筆者だけであろうか。この年の2月か3月頃、県の4段広告の中に蒲島が初回から使っている「カバ」のイラストが入っていた。普段県の広告にはよく「くまモン」が登場する。で、カバのイラストを見た筆者は「蒲島4選は間違いないな」と確信した次第。そして蒲島出馬宣言と選挙。常々から蒲島は「各政党とは等距離を保つ」と宣っているが幸山2回目の挑戦となるこの選挙、事前の幸山評は「県南を中心に支援を拡げている」であった。これに危機感を持ったのが県連で、初戦に続く“党議拘束”を掛け、9月1日付で自民党議員(国会、県議、熊本市議)に通達している。これが蒲島が云う所の「不偏不当、県民党の蒲島」の実態である。4選目の選挙期間、蒲島は「新型コロナ対策に取り組む為職務に専念する」と綺麗事を云っているがその通りであった。選挙は県連に任せて「私は一所懸命新型コロナと向き合って県民を救うのが使命である」とよく自覚している。(敬称略)



 大西市長があれ程拘っていた市庁舎建て替えについて「ゼロベースで議論する」と表明した。昨年の新型コロナ禍の最中に「コロナ禍に対応する」として議論の中断を議会に申し入れたが、今年になると「有識者会議を立ち上げて議論したい」と云いだした。この有識者会議は大西市長が指名する委員で構成されるだろう。結果は火を見るより明らかで、大西市長の方向性を忖度した報告となると解するのが常識である。ここで提案。有識者の選任については市側半数、議会側が半数にしてはどうであろうか。その結論であれば市民も納得するかもしれない。

 蒲島郁夫知事が4選を果たした。第1回目の選挙から4選まで選挙費用はおろか運動員に至るまで自民党県連が丸抱えであった。それだけの人材であり、熊本丸の船長として最適と県連幹部が判断した結果であろう。当初蒲島知事は「県民の総幸福量のアップに務める」と云っていたが、いつの間にかこのキャッチフレーズは消えた。県民の多くが幸福になったからだろう。そして4選後は「県知事豹変す」で川辺川ダム復活ときた。ダム反対も唐突であったが。
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