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発行者:福島 宏

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 任期満了による衆院選は11月と見られていたが、岸田文雄新首相は10月14日解散、19日公示、31日投開票と公表した。議員の大方は11月投開票と読んでいた者が大方であり与党議員も周章てたのではないか。一挙に選挙ムードに突入したが、これも岸田新首相が「行動しない男」と評されていたのを払拭すると共に、新内閣攻撃の隙を野党に与えない手段とも読める。

 熊本選挙区4区の内、1区、3区は自民安泰、4区も直前の組閣で金子恭之が総務相に抜擢された事で、これまで「影が薄い」と云われていた存在感が一気に増した。残るは熊本2区。前回選挙で初出馬、ベテラン議員の野田に23、000票差まで迫った西野の力は侮れないだろう。前にも書いたが、筆者が相手の人柄を観るのは“噂”ではなく相手と接触して判断してきた。今後もそうだろう。西野については、西野が出馬前、筆者が熊本で人脈作りをしていた頃経済人との雑談の中で「若手の有望株」と聞き関心を持った。その後2回程西野の演説を聞く機会があったが「饒舌の割には中身がないな」という印象であった。筆者としても、ベテランと云えば聞こえはいいが、野田もそろそろ後進に道を譲ってもいいのではないかという思いも抱いていたので、東大―財務省とエリートコースを歩き「日本のための国造りをしたい」とする西野に少しは期待した時もあった。が、西野の挨拶する姿、話振りで少しがっかり。その後選挙が近まるにつれ西野についての情報が寄せられだした。2区から野田の対抗馬として出る以上元代議士の林田彪、村上寅美県議がバックに居るのは当然で情報もそれを裏付けていた。

 筆者が“西野信頼ならぬ”と断じたのが「自民党2区公認」を自称していると判ってからである。決定付けたのが前にも報道した「アポなしでいきなり自民党熊本県連を訪れ、幹事長の前川に『2区から自民党で出ます』と宣言した」事である。この時前川は「2区は野田さんが居るので直接話し合ったら」とアドバイスして帰したと聞いた。これが平成28年の夏頃の事だ。翌29年9月27日、西野は衆院議員(東京20区出身)の木原誠二氏と共に砂防会館に元自民党幹事長古賀誠を訪ねた(木原は立ち会わず、福岡出身の古賀篤が同行したとの説がある。この木原~古賀と西野の繋がりは別記する)。ここで西野は古賀誠に「自民公認をと頼み込んだ」との説もあるが、筆者は確認していない。翌28日、西野は熊本の各報道陣と共に自民党県連を訪れ(これも事前アポなし)「自民党公認」の申請書を持参した。当時の山本会長、前川幹事長が不在で職員は「お預かりできません」と断ったらしいが西野は書類を置くとともに報道陣に自説を主張して帰っていった。職員から事情を聞いた前川は県連に駆け付けて記者会見「西野氏はあちことで自民党公認を自称し、自身のホームページに『自民党熊本2区』と記入しているが、これは『自民党を詐称した事になる』」と激怒していた。又前川は「この前読売新聞が西野について『公認申請中』と書いていたので読売の記者にも裏をとって掻く様にと注意した」とも語った。

 2面で詳報するが、2区は野田が自民党公認で地盤を固め、連戦連勝していたが、平成6年細川内閣が崩壊、後継の羽田内閣も2カ月で総辞職した。この時野党にあった自民党がまさかの社会党と手を組んで、自民党を割って立候補した海部元首相を破り村山内閣が誕生した。この時野田は自民党改革本部長の要職にあったが、海部とのしがらみから海部に投票、自民党を離党せざるを得なくなり新生党に移った。その後新生党(羽田孜代表)は公明党、日本新党、民社党を加えて新進党を結成、新進党ブームが沸いた。2区は野田が出た後の穴が埋められずにいたが、平成8年、衆院選が迫る中、建設省熊本工事事務所長を務めた事がある林田彪を急拠引っ張って来た。当時の林田は建設学校校長を務めていたと云われ、当初は乗り気ではなかったが「必ず当選させる」と説得されて出馬を決意したという。
(敬称略)



平成8年衆院選
林田彪 初出馬・野田に敗北
  自民党県連は林田を落としてはならないと全力投入したが、当時新進党県連会長の野田毅に1万8千票差で破れた。林田は比例でも救われず落選した。自民党を離れても野田の支持層が揺るがない所が野田の人間としての強みであろう。この選挙は新党ブームの中で行われ1区は細川、5区矢上、4区はさきがけに所属していた園田が当選した。自民は3区松岡1人の当選であったが、「ぶれない松岡」として以後松岡の力が強まる。この頃小紙は自民党公認で当選した県議、市議の連中までもが「自民」を隠し無所属で選挙に臨んだ姿勢を厳しく批判したのを憶えている。

 さて、落選した林田だが、自民党県連は約束を守り平成11年7月、比例当選していた東野嘉幸を辞任させ林田を繰り上げ当選に持ち込んだ。翌12年の総選挙で林田は「当然選挙区から立候補出来る」と思っていたが、当時の自自公連立内閣の枠組を守るとする自民党本部の意向で比例に回された。野田は保守党公認自民推薦で選挙区当選、林田も比例で当選を果たす。この時から林田後援会、中でも林田夫人を中心とした女性後援会「福友会」が野田陣営と敵対する姿勢を強めたのである。平成14年12月、野田が自民党に復帰、自民党幹事長の山拓派に属した。翌年の総選挙で林田、野田氏が小選挙区を巡って公認を争ったが、自民党県連の意向もあって林田選挙区、野田比例で決着がついた。

 その後はコスタリカ方式を導入、交互に選挙区、比例で出馬していた。平成21年8月の総選挙で自民党が大敗北した年もコスタリカが生き選挙区の野田が11万票を獲得、民主の松野に3万票の差をつけて当選した。野に下った自民党が再起をかけた平成24年12月の選挙は2区のコスタリカ方式が解消され選挙区選挙で2人が闘ったが、野田が当選した。野田は2区支部長に就くのが当然であったが「林田の再起を助けたい」(野田派幹部談)として支部長の座を林田に譲った。この前後から云われだしたのが「野田派の結束は固い岩盤層だ」である。林田は平成26年12月の選挙でも選挙区での出馬を希望していたが自民党県連の調整で比例に回される事になる。比例も悪い位置ではなかったが、この時の選挙で沖縄の自民党が選挙区で全敗した。その連中が比例に上った為林田の順位が下って落選となった。

 その後も次回に向けて出馬の動きを見せていたが、結果的に後継者も見つからず政界を見切って福岡に転居してしまった。それまで熱心に林田を支持していた村上県議を中心に「林田の後継者探し」をしていたが見つからなかった。そこに福岡の“実力者”である古賀誠から西野の話が持ち込まれたのである。筆者は林田~村上の線からと思っていたが、出馬に至るまでの経緯などは本欄右下を参照して頂くと分る。(敬称略)



西野太亮
大志を抱いて熊本2区へ
 西野太亮が熊本2区から出馬するに至ったのは「林田引退の後継に村上寅美らが持ってきた」と聞いた事があり、異和感はなかった。一方で「西野の話は東京が発信元」との声もあったので、在京の知人ジャーナリストに関係方面に当たってもらった。その結果を以下に記すが、筆者が裏取りせず(それ程重要ではない)に記述したとお断りしておく。

 西野は東大―財務省のエリートコースを歩んで来たのは自身でも述べている通りである。官僚時代政治家との接触もあった様で政治への関心は高い方であった。“何れ政治家に”という思いは強かった様で、財務省から政界に転出した木原誠二とよく会っていたらしい。西野が辞職して転身に踏みきったのは平成26年の選挙で落選した林田が暫くして引退を表明した頃と見られる。熊本の政界にコネがない西野は木原誠二(官房副長官)に相談したが、東京20区選出の木原に熊本出身議員に知人は居ない。

 で、同じ古賀派で福岡出身の古賀篤を紹介、篤から古賀誠を紹介された。 西野と会った古賀誠は「熊本2区は野田があと1、2回で引退する筈だからそれまで待ったら…」とアドバイスした、しかし西野としては「次々回では林田後援会の地盤が弱まる」と判断したかどうかは分らないが、古賀の助言を振り切って出馬したという。古賀誠も行き掛かり上、林田、村上に声を掛けると共に西野を支援しているのが現状である。



 自民党の総裁選を勝ち抜いた岸田文雄氏が首相指名選挙で第100代首相に選出された。これまでの印象は「温和で優柔不断」と線の弱さを感じていたが、4人が争った総裁選では「これがあの岸田さん」と思える程力強く自分の政策を述べていた。この姿が本当の岸田文雄かもしれないが、それは今後の政治活動で明らかになるだろう。

 4人の内、一番人気だったのが河野一郎氏であったが、筆者は常々「首相にしたい人」で上位にくる河野、石破、小泉氏について「何故こんな議員が首相に相応しい」のだろうと思い続けていた。奇しくも立候補した河野氏を「出るか出ないのか」とぐじぐじしていた石破氏が立候補を断念して支援、一方の“人気者”小泉進次郎氏も河野氏を支援した。この3人に共通するのが反原発である。小泉氏など父似で、はきはき発言する若者らしさに騙されて筆者も好感していた一人であるが、大臣に就任した途端、マスメディア各社から女性問題の「だらしなさ」を糾弾された。盗癖と女癖の悪さは治らないと俗に云われているが、これで小泉氏の首相の芽はなくなった?。

 事前の予想通り、河野氏は党員党友票は先ず予想通りであったが、議員票を合わせると1票差で2位となった。決戦投票は岸田氏が大差で勝利し総裁の座を獲得した。首相としての手腕は未知数だが、何となく期待してもよさそうだと思っている。とにかく河野氏ではなくてよかった。



 1面で長々と野田毅×林田彪の確執を書いたのは、2区の両タケシの支持者が選挙の際に正しい判断が出来るようにとの思いからである。一旦は横道に逸れた野田ではあるが、復党後入閣こそしなかっ たが自民党の重鎮として党の税調会長など歴任「財政通の野田」として広く知られていた。政務に追われ帰郷する回数が少なかった為2区の選挙区回りが少なかった。反面、林田は旧建設省出身の力を発揮(といっても土建業者が潤うだけであったが)地元に根付いていた。林田と土建業者の癒着は目に余るものがあり、いざ選挙となれば高級外車に乗った黒服の業者らが馳せ参じた。業者の一人は「仕事の配分は林田が直接していた。キックバックの礼金が少ないと暫く干された」と語る。仕事を回すのは8割以上2区内の業者で、票と金の一挙両得狙いであった。こう断言出来るのは市外の某業者が一席設け「今後よろしく」と百万単位の金を渡したが、その後何の音沙汰もなかった。“類は友を呼ぶ”で、この林田と二人三脚と云われたのが“悪ゴロ”県議の村上寅美で、村上の悪業は小紙で何度も報じているのでここでは措く。

 林田の後釜を狙っての西野の出馬であるが、初出馬の前回の選挙前に自民党県連の怒りを買う傍若無人の行動に出た。勝手に「自民党熊本2区」を名乗って運動したが落選、次回を目差して猛活躍中である。2区を名乗った事について支持者の一人は「自民党員として会費を払っているので詐称に当たらない」と云ったが、こじつけもいい所である。

 所で巷間噂されているのが「西野が野田に対して6―4もしくは5.5対4.5でリードしている」という選挙状勢だが果たしてそうか。NHKを始めマスコミは「既に2度程世論調査を行ってある程度の実情を掴んでいる」と云われるが、先ずこの情報が外に漏れる事はない。従って噂として流れている情報に信憑性はなく「かくあってほしい」という願望と見ていいだろう。西野陣営に勢いがあるのは確かで初回に比べて後援会や立看板など相当増加している。これについて「西野は金がないのによくあれだけの立看が作れたな」という声も。西野の資金源については「古賀誠説」が強く「古賀が自分の息のかかった熊本の土建業者に指示を出している」というものだ。これまでの古賀の建設業者への影響力は絶大で、南関町に古賀道路が走り、立野ダム、八代の港湾事業でも古賀の名前が取り沙汰される程である。が、岸田内閣の誕生で「古賀の力もここまでだろう」とは事情通の話。新内閣が西野、野田のどちらに有利に働くかは分らないが、野田陣営に活力が出たのは間違いない。又、自民党県連が「西野だけは通す訳にはいかない」と全力投球している野田が有利か。



野田の功績か
国の震災資金交付
 熊本地震の復旧復興資金の国からの支援金について、国会議員は夫々の選挙区内で「国への働き掛けを懸命にやっています」と市町村長らに説明していた様だが、筆者が得ていた情報では「各国会議員が野田代議士の許をよく訪れていた」である。この方面は余り関心がなかったか、熊本県に交付された「国の財政支援は私が財務省、農水省に働き掛けて交付させた」と自称したり「野田は過去の人、今は自分の方がパイプは太い」と云って回る輩が居ると聞いた。「事実はどうか」と人を通して熊本県、熊本市に支援状況を聞いた結果が以下の通りである。

 資料によると平成28年から31年度までの当初予算総額(一般会計)3兆8、857億円の内、熊本地震関係9、311億円、28年度補正予算「熊本地震復旧予備費」を創設、関係経費780億円、予備費7、000億円を併せて7、780億円。他に政令市である熊本市分として3~400億の獲得に力を発揮していると云われる。紙面の都合上省略した部分が多いが、「財務省と長い交流がある野田だから出来た仕事」と熊本県の幹部も認めている。勿論この財政措置の全てが野田の力とは云わないが。



西野だいすけ事務所
農家持続化給付金指導続く
 令和2年春、日本でも新型コロナウイルスが蔓延しだし中小業者に被害が出だした。この事態を受け政府は「新型コロナウイルス感染症緊急経済対策」を施行、中小企業の救済に動きだした。ここまでは良かったが、続いて第2次補正予算を組み救済範囲を拡大した。これにより小企業、個人営業、農家までが支援対象となり“濡れ手で粟”組が発生した。それが県内でも各種農家にも伝播した。簡潔に云えば農家は季節で収穫期と閑散期がある。それをうまく利用して給付金を受給しようとする“悪”が出現した。受給資格条件が甘いのも大きな欠陥であったが、これに加え政府が業務を民間業者に丸投げしてしまった。業者は政府に指示された通りに条件さえ合えば中身はどうでもよかった。皆さんが「コールセンター」にかけるのと同じで、マニュアル通りの回答しか出来ないのと同じで、責任感ゼロである。その隙を衝いて何件もの給付金を得ていた輩が警察に検挙された報道をよく目にする。省庁の職員2人がこれを行っていたのには、あいた口が塞がらない。ここからが本番。

 令和2年8月号で小紙は「西野だいすけ事務所が荒玉を地盤とする県議らと組んで給付金受給資格と手続き等の説明会を行っている」との情報を得たのが同年6月、取材を始めて程なく同6月19日付熊日が「コロナ対策の持続化給付金」「一部農家不適切受給か」の見出しで「県議会委員会で収穫前のナシ農家が給付金を受給している情報がある」とした複数の県議の発言と、県北の果樹園農家にも取材した結果を報道した。熊日報道は給付金を申請した」だが、小紙が取材した時は「給付金を受給した」で、それも10指に余る梨農家である。中に梨部会幹部の名前も見られた。玉名市郡部ではイチゴ、トマト農家を町内単位で集めて“説明会”が開かれたが、ここでは主に城戸県議が動き西野と秘書らが説明に当たった。某所で城戸県議が「電子申請ですので出来ない方には私の事務所が代行します、手数料は1割です」と云ったのが録音されており、小紙での報道で「城戸県議・手続代行料1割明言」の見出しになったのである。小紙報道後、西野事務所の行動はやや慎重になった様だが“相談指導”は続き、ある根菜農家は「一旦収穫した生産品を廃棄して受給した」と語る農業者も居る。説明会や需給指導は選挙区内全般に亘っており、南区の米農家、トマト農家、メロン農家に及んでいて「西野は金がないのでこれで資金集めをしているのではないか」の声も聞こえるが、これ位(幾らか分らないが)では選挙資金にはならないだろう。

 最後に致命的事実を。西野事務所の指導で給付金を受給したXさん、「不正受給で検挙」の報道を読んで怖くなり、西野事務所に支払った手数料10万円を自腹で加えて返納した。この事実を西野事務所は知っていない。



城戸県議小紙報道
委員会で弁明
 左に掲載しているのが小紙令和3年8月号2面だが、その中に令和2年8月号で報じた「西野だいすけ氏らが疑惑の農家指導」が西野事務所と県議らが組んで農家を指導した状況について報じている。中央部分「トマト農家の説明会 城戸県議・手続代行料1割明言」は別欄でも述べたが、その後日譚が面白いので記す。小紙報道を何処かで入手したらしい城戸県議も読んだらしい。

 その後に聞かれた県議会の農水委員会か何かで小紙報道について弁明したのである。これは某県議から耳にした事だが、城戸は委員会で「皆さんも既に読んでいると思いますが、熊本県民新聞に私の事が書かれましたが、あれは事実ではありません」と云った後、県の農水担当者に給付金の主旨などを質問していたので、早く云えば自分は法に触れる事はしていないと云いたかったらしい。某県議曰く「そんな事はここで云わず直接県民新聞に云うべきでしょう」と。その通りだ。



 余り間を置かず「気胸」を2回患った。最初は7月3日で、夜中に呼吸が苦しくなりタクシーで日赤の救急外来を訪ねた。1時間以上待たされて女医が診察したが判断がつかない様子。この2日前行きつけの病院で診てもらったんだが先生は首をひねるばかりであったので「少し様子を見ます」と云って帰ったのである。その事があったので「もう少し様子を見ましょうか」と医師に伝えると「そうですねえ。敢えて考えられるのは気胸ですが、今は何とも云えません」と云ったので帰宅した。もう午前5時である。

 眠剤を飲んで眠ったが、息苦しくなって12時過ぎに起きて洗面する。増々息苦しくなったので自分で救急車を呼んだ。すぐ指先で血中の酸素濃度を測り、濃度が低かったのだろう酸素マスクを付けられた。日曜であったため日赤救急センターで医師らが待機してくれていてストレッチャーで運ばれた。レントゲンとCTですぐ気胸と分かったらしく「今からドレーンを入れますから麻酔をします」と云って左腋の下に2本射たれた。間を置かずメスを入れたのでその痛いこと。ぐっと我慢したらドレーンの先が胸膜など破って挿入されるのが分かる。終った頃には家族も来ていて入院室が決まるまで雑談する。幸い空室があって入院となり家族と別れる。以後7日間の入院生活が始まった。

 看護師は若い人が多く、明るく接してくれるので一安心と思ったのが大間違い。入院4日目で「肺が正常に膨らんだ」としてドレーンを鉗子2本で閉じたのである。しかし5時間程で苦しくなったので鉗子を外しこれまで自然排気に任せていたサキュームに電源を入れる事になった。所が電源までのコードが足りないので、日勤の看護師が「用があったらナースコールを押して下さい」と云って帰っていった。私が見るとベッドを逆にすると電源にコードが届くと判断したので夜勤の看護師が来たので「ベッドを反対にして下さい。そうすると電源が繋がるので夜中に貴方達を呼ばなくていい」と云ったが「それは出来ません」と云う。「何故出来ないのか、広さも充分にあるので貴方達の邪魔にもならんでしょうが」と云った途端「そんな大きな声を出さないで下さい、びっくりしますから」と冷たく云い放った。私は普通に話して聞き入れられなかったので少しは声が大きくなったかもしれないが、相手を刺激する程のものではない。頭に来たので「あんたもう出てってよ、あんたの様な人に看てもらいたくないから」と強く云う。すると大人しくなって「私が担当ですから」と云うのでベッドを2人で動かした。おかげで夜中に1.5時間毎にトイレに行く際ナースコールでいちいち看護師に来てもらわなくて済んだ。1日後には電源不用になったのでベッドは元に戻した。

 で2回目の発症は9月18日深夜。午後10時頃書き物を終って事務所を出て歩きだした途端、胸部の上部で息が止まる感じとなり「ひょっとして」と思いながら帰った。「夕食を…」と思ったが息苦しくて食欲はない。前回の経験から「気胸の再発」と感じタクシー会社に電話したが「30分位かかる」と云ったので自分の車で日赤に向かう。救急外来で「息が苦しい、この前気胸で入院した」と云ったら一般待合ではなく「トリアージの席で待つように」と云われ、程なく医師の診断があり「少し待て」と云われる。間もなく前回担当だった医師が来てくれて前回と同じ様に穴を開けられ、その夜はICUのベッドで過ごす。翌日病室が空いたとして病室に移動、入院となった。

 入院2日目の夜10時の消灯後眠剤を飲んだが11時頃になって眠ったらしい。「バタン」という音で目が覚め、ドアの方を見ると人影が。看護師の巡回と思ったが「あんた今音を立てたでしょう。目が覚めるから音を立てないでよ」と云った途端「私は患者さんを見て回っているんですよ。音を立てずには出来ません」と思わぬ返事だ。看護師が去った後ドアの所に行ってドアを開け、閉める時もノブを回したまま閉めたらコトリとも音はしない。入院患者は色々な不安を抱えている人が多い。睡眠は病状の回復に大きく作用する。患者の睡眠を妨げなく行動するのは看護師として当然の行為である。翌朝、看護師に「婦長を呼んでくれ」と云って室まで来てもらった。平身低頭したが「何故本人を連れて来ないのか」には逃げの一手であった。人手不足故叱れないのだろう。



創刊25年を振り返る〈17〉
うなぎ養殖場独占した男
 掲載の小紙は平成22年12月号である。この年全国的にうなぎの生産地偽装問題が発覚してマスコミを賑わした。即ち中国産を国内の「一色産」や「鹿児島・宮崎産」として消費者に販売していたのである。不正を暴いたのはテレビ朝日のM記者で、熊本でも村上寅美県議が経営する「ヨーマン」と同系列の「九州生鮮」(植木町)の偽装問題を報道した。加えて当時県議会議長を務めていた村上議員が公用車で福岡の「福岡ヨーマン」を訪れた姿をビデオに収めた。

 福岡ヨーマンは村上氏の実弟川越勝氏が社長を務めていたが、中国から来たうなぎを福岡ヨーマンと書かれた箱に移し替える所まで撮られテレビで放映された(その後福岡ヨーマンは解散、暫く川越氏の姿も消えた)。筆者が村上県議を許せなかったのは、国が「強い水産づくり」を掲げ、全国の中小業者を育てるとして補助金を交付した。熊本県養鰻漁業協同組合(村上寅美代表理事)に対し農水省から約1億4千万円が交付された。それを基金に設立されたのが現南区富合町釈迦堂にある「緑川漁業生産組合」である。本来は県内の業者(玉名と氷川町にあった)が加わって設立され、運営されるべきこの施設を村上氏は独占したのである。組合員にはみかん農家だった村上氏の妹婿の木下氏以下身内で固めてしまった。新施設は温度管理から給餌まで自動化され、過去うなぎ養殖に携わった村上氏とて歯が立たない。そこで大阪から「プロのうなぎ養殖人」と云われる山下氏を高給で招いた。

 山下氏は若い助手3人を連れて来熊、緑川センター内に起居しながら養殖のノウハウを木下氏らに教えたのである。所長である山下氏の監視役として、村上氏の秘書と目されていたSを事務員として据えていたが、山下氏と男女の仲が疑われSは一時ヨーマンを解雇されたが、後に復職している。尚、Sは夫持ちである。この緑川生産組合に平成20年1月会計検査院から検査が入った。検査官らは富合町役場に拠点を置き5日間に亘って県水産課と同センターを調査して去った。後に「補助金不正使用」として農水省から「返還命令が出された」と聞いたので、県の水産課に取材したがノーコメントであった。これら村上県議に纏まつわる一連の行為は小紙が報道したので小紙の読者はよく御存知であろう。この村上氏の独占欲が「熊本の養鰻業発展を阻害した」というのが定評で、うなぎについては鹿児島、宮崎に大きく水をあけられている。うなぎの記事は多いが、これが面白いと思って掲載した。



大西市長が建て替えの根拠とした
地下杭の調査費用返還せよ
 平成30年6月5日熊本市議会の「公共施設マネジメント調査委員会」で大西一史市長は「本庁舎の建物を支える地下杭について建築設計事務所に調査を委託した結果、建物が現在の耐震基準に合ってなく、今後震度6強の地震が発生した場合建物が傾く恐れがある」として庁舎の建て替えを提示した。

 翌6日の熊日は1面と3面でこの問題を大きく報道、筆者や市民の知る所となった。熊日の記事には建て替えや耐震補強など4案が載っており、余りの手際の良さに不信感を抱いた筆者が、現庁舎建設時の資料を入手、建設に係わった一級建築士などに取材して「大西追及の第1弾」として報道したのが左の小紙である。本文まで読める様に大きいスペースを取ったので、これまでのように虫メガネなしでも充分読めるであろう。

 その後熊本市議会でも「建て替え慎重派」と「推進派」が2分化、最大会派であった自民党も割れて「自民党」と「熊本自民党」となった。市民の多くも「あの大地震に耐え、何の被害もなかったのに建て替えはおかしい」の声を挙げ、一部の市民有志が「庁舎建て替えを考える会」(西川文武代表)を結成して活動を開始した。その一環として熊本市が建築設計業者2社に委託した「地下杭の耐震調査」費用の返還を求めて「住民監査請求」を行った。

 熊本市監査委員会はこの請求について最初に委託した安井建築設計事務所に支出した7,000万円については却下。同じ調査を委託した㈱山下設計に係る3,000万円請求の分は棄却した。これを不服として市庁舎建て替えを考える会側は去る9月15日付で熊本地裁に「市が業者に支払った1億300万円を返還せよ」として大西一史市長を提訴したのである。請求者自身に何の利益も齎もたらさないこの提訴に対して頭が下る思いである。そこにあるのは「不当な公費の乱用」に対する怒りであり、箱物作りに猛進する大西一史という“ゼニゲバ”男に対する警告でもあろう。




建物の耐震調べず
地下杭調査の不思議
 小紙が大西市長が公表した「耐震基準を満たしていないから立て替える」に対し、何故反対するか。常識ある市民であれば理解して頂いていると思う。筆者はよく市庁舎を訪れる。熊本地震の前にも、その後でも行っている。

 地震後は特に興味があったので「どれ位被害が出たのだろう」と思って上階の喫茶室から地下2階まで回ったが被害を受けた個所は分らなかった。顔見知りの職員にも聞いたが「何の被害もありません。どこかで水道が洩れていたかな」程度であった。議会棟に行って議場を見ると天井からクロスの様な物が垂れ下がっていたと覚えている。後日報道で天井の一部が剥げ落ちたと知った。

 地震後に熊本市も建物などの被害調査を行い、「問題なかった」として使用を続けていたのである。それから2年後、大西市長は突然「建物を支える地下杭を業者に委託したら159本の内50本が震度6強で致命的な損傷を受ける」として建て替え案を提示したのである。小紙で何度も報じている通り、現庁舎を設計した㈱山下設計と施行したゼネコン2社によるJVも、庁舎完成後「震度7でも充分に耐えられる建物」と太鼓判を押していたのである。その建物本体の耐震性は調べず、地下杭を調査させて「地下杭が崩れると本体も危い理論」で建て替えを唱えだした大西市長、一部の市民が云う様に「相当な変り者」なのであろう。見方によっては「本体に異状がないので、人目が及ばない地下杭に原因を求めて建て替えを発案した」となってもおかしくはない。

 市は建て替えについて白紙に戻し「有識者会議の結論に委ねる」としているが、どうせ大西市長が回りすぎる頭で委託した有識者だ、結果は火を見るより明らかだろう。自治体の長が集めた「有識者会議」や「検討委員会」で首長の主張がひっくり返ったなど寡聞にして聞かない。筆者が大西市長を“銭ゲバ男”と蔑視するのは「首長がすべきでない資金集めパーティー」を何度も行う無神経振りと貪欲さにある。大西市長後援会主催といっても、案内が来た業者には大西市長と同じ重さがある。泣き泣きパー券を買っている業者も居る事だろう。




 3面に書いた様に中2カ月置いて気胸に罹った。初めての事で、1回目は退院後の療養を甘く見て退院後から普通に動き回った。2回目は医師の注意を理解して2週間行動を自制した。気胸を御存知の方は多いと思うが、肺の一部が破れて空気が洩れる事である。これで肺は萎縮して小さくなり酸素を取り入れなくなる。ビニールパイプを通して洩れた空気を外に出してやると肺は元に戻る。あとは自然癒着を待って退院となる訳だ。

 入院中のボケ看護師の事はまだあるが紙面の都合で簡潔に終らせた。それにしても病院食は何故あんなに不味いんでしょうね。1回目の時は食欲が湧かず余り食べなかったら2キロ痩せたので、2度目の時は梅干で米飯だけは欠かさなかったら3、4百グラム減で済んだ。お陰で9月号が出せず本号を9・10月合併号とした。2区の野田対西野は「互角の闘い」と云われているが果たして結果は?。西野に熊本市議やOB、市のOBが多く支持しているのを見て驚いた。17選を狙う野田が地元への貢献が少ない、熊本の人間ではないとのモッコス主義者が西野に走ったのであろうか。
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