熊本県民新聞 WEB版
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■ 発 行 所 ■
〒861-8034
熊本市東区八反田1丁目14-8

発行者:福島 宏

電話:096-234-8890
FAX:096-234-9883


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 衆院選熊本2区は野田毅氏の牙城と見られていた。これまで16回の選挙は全戦全勝であった。その余勢を駆ったつもりの今回の衆院選だが、前回から間が空きすぎた。支持者の高齢化が進み、対立候補は充分な運動期間を得た。熊本県選出の衆院議員としての働きはかつての松岡氏を凌ぐものがあったが、その功績は選挙民の耳目に届いていなかったのも不運であった。対する西野陣営は林田後援会が息を吹き返してフル活動。西野氏の若さと行動力が無党派層の共感を呼び大量得票に繋がった。西野氏が自民党に入党し第2支部長に就いたが、自民党本部は野田氏に政党活動が出来るようにと別組織を作る事を認めた。今後も野田氏の活躍が期待されている。

 当初は“保守票の奪い合いで大激戦になる”と見られた衆院熊本2区だが、終わってみれば新人西野太亮氏が5万票の大差をつけて圧勝した。今春までは「野田~西野互角」と選挙通は見ていたが、5月頃から「西野支持」の声が大きくなり後援会活動も活気付いていった。活動の中心は林田彪氏とその後援会、これに連なる亡き村上寅美県議の支援者など“反野田派”が一体化した。中でも目立ったのが故寅美氏の妹婿、木下優喜氏の動きであった。木下氏はJA熊本中央会理事(6月に辞任)の立場をフルに活用、荒玉地区の農政連2総支部を“自主投票”に持ち込んだ。同地区の県議も、小紙既報の通り農家持続化給付金の「受給説明会」に西野氏と一体化した活動で「西野勝利」に貢献している。前回の地方選で野田氏の秘書が玉名地区で出馬、そのとばっちりで弾き出された浦田由美子氏が西野氏支援に回ったのも“想定外”であった。

 今回の衆院選が“異様”であったのは「隣県の元代議士」が西野氏支持で動いた事が挙げられる。こうした状況は時として発生するが、せめて配下の組織を動員したり、関係者に声を掛けるのが“常識”だろう。所が古賀誠氏は直接的に西野氏を支援、資金の便宜を図り、建設業者も動員したと云われている。当選後の西野氏も当選後の記者会見で自民党入党問題を訊かれ「お世話になった古賀誠さんらにどう進めるか相談する」と臆面もなく語っている。要は西野氏は今後“古賀氏の手駒”になると表明した事になる。古賀氏の土建業界への影響力は強く、“縄張り”外の熊本県の事業まで触手を伸ばしている事は関係者以外余り知られていない。

 有明海を巡る様に整備される「有明海沿岸道路」は福岡県優位に進んでいるが熊本県側は故村上寅美県議が「有明沿岸道路建設期成会々長」を務めていた。が、反野田の為中央との連携が上手くいかず停滞気味であったとされる。野田毅氏は独自の案で水面下で推めていたが、落選で動きが見えなくなった。西野氏は古賀氏の力を借りて強力に進めたいと発言しているらしいが一年生議員の力は微々たるものだ。“地元の役に立つ”まで育つかどうか。本年度から熊本県側も着工するらしいが、既に大牟田の業者が荒尾市の業者と手を組んで受注に動いている。



西野陣営給付金説明会奏功
野田陣営過去の栄光に縋る
 今回の衆院選で落選した野田毅氏だが周辺では「負けるべくして負けた」という声を多く聞いた。敗因は多々あるが、野田氏本人が政務に追われ帰熊回数が少なかったのが第一の敗因ではなかったか。少なくとも月に1、2回は帰熊して“国政報告会”などを開き、自身の地元への貢献を交えて語らなかったのか。野田氏周辺は「今度は危ないですよ」と何度も進言したと云うが、本人は過去の16連勝が「次にも続く」と思い込んでいた様だ。対する西野氏はあらゆる手を遣って人脈を拡げるとともに農家を中心とした小集会をこなした。その中でも、農家持続化給付金制度を上手く利用して受給手続きの電子申請を指導、又は代行するなどした。地元県議などと行ったこの説明会は予想以上に成功した様だが、これらの詳細は前号でも報道したので省略する。多くの農家が「西野さんに恩誼がある」として一票を投じたと聞く。

 その農家の一部、西区に集中しているレンコン農家がある。熊本地震で沖新地区の防波堤に大きな割れ目が出来た。海水が浸入した場合、レンコンは全滅する。業者らは県に早急な修理を申入れたが、県は地震対策で動きがとれない為野田代議士を頼った。その結果、野田氏が動き異例の早さで緊急工事が行われ海水の浸入は防がれた。この事実を大方のレンコン農家は知っている。その中の一人であるレンコン農家はその後も一貫して野田氏を支持しているが、他のレンコン農家の“裏切り”に怒りを隠さない。2区内にはレンコン農家が集中しているが、その中の40~50戸が給付金を受給「地震の恩を忘れて西野氏支持に回った」と語る。某農家は「昨年の7、8月の収穫期に一旦収穫したレンコンを廃棄して給付金を受給した」と云われ、筆者の手元に住所、氏名が届いている。こうした西野陣営の動きに比べ野田陣営は、と云えば旧態依然の姿勢で選挙に臨んだのである。自民党県連は全力投球したが、荒玉地区まで影響力は届かず惨敗した。前川收県連会長の「責任論」も一部の県議から出ているが、前川会長の権勢に面と向かって云える県議はいない。



小紙への抗議文に読む
投票者心理と行動
 小紙前号で衆院選熊本2区について特集した。記事を読んだという「野田支持者」と名乗る人物から増刷を依頼されたので増刷して渡した。

  その熊本県民新聞がポスティングされたらしく数人から反応があった。多くは「一般のマスコミにない記事で実情がよく解った」という電話であった。ただ一人だけポスティングの苦情と記事を批判したメールが届いた。読んでみると正鵠を得た論評であり、何故西野氏に票が流れたかを知る一つの手懸りと判断したので全文をここに記述する。

 発信元も堂々と記されているが、ここではハンドルネーム「きの」氏とだけ記す。発信日時2021年10月26日20時14分。「今日、自宅のポストに、西野太亮氏の疑惑や詐称などのチラシ(A3サイズ)が二枚ポスティングされていました。誰がポスティングしたの?何の為に?誰の指示かおおよそ検討(筆者注見当か)はつくが、勝手にポスティングしないで頂きたい。チラシにコロナ菌が付いていたらどうするの?今の時期に無意味なポスティングはやめて頂きたい。熊本2区は変わらなければならない。若い力、若い柔軟な頭で、国民の為に働かなければならない。若い志しのある西野氏の記事は私達に関係ない。今の時期に良くもこんな記事がポスティングされたものだ。こんな情報はいらない。貴方たちは誰の為にやっているの?今後一切この様なポスティングは辞めてください。気分が悪い。私は若くて志しのある人に一票を投じます。熊本県民新聞様に思いをお伝えしましたが、誰がポスティングしたか不明の為、間違っていたら申し訳ありません。最後に、私は世代交代だと思います。前議員が私たちの為に何をしたか?不明であるためです」以上だが、読んでみて如何?投票者の心理がよく判るし、小社に対する礼儀もきちんと弁えている。それなりの常識人であろう。本号でも記述している様に「野田氏の実績が見えない」ことと、西野氏の空念仏を真に受けた選挙民を垣間見たとも云える。




 本号1面に特集したが、衆院選熊本2区は16連勝中の野田毅氏が新人西野太亮氏に5万票の大差で敗れた。昨年から衆院解散が話題に上りだした頃野田氏に会った某代議士がいる。その時当然解散選挙の話が出たが「野田先生は熊本地震後の復旧復興事業で国と直接交渉したのはこの私だ。

 県がどうにも出来なかった補助金など、業者が5社以上で組む事によりグループ補助金として早急に出るようにした。その他にも震災復旧で私が熊本の為に動いたのは県の関係者がよく知っている。私は次の選挙を余り心配していない」と語ったという。だが野田氏のこうした貢献は一般の県民が知る事はない。人は目に見える物で判断し行動する。前回選挙から4年間、2区内各所で集会を開き、人に紹介された相手に「食事でもしましょう」と誘って一献傾ける西野氏は見える存在である。語る内容に実がなかったとしても西野氏は身近な存在となる。

 西野氏は選挙中有明海沿岸道路で「野田氏では発展がなかった。私は福岡の古賀先生に協力を仰いで早急に事業を進める」と演説しているが、そう簡単に国は動くものではない。虎の威を借りる狐ならぬ西野氏だが、「何かあるとすぐ古賀先生を出すので嫌気が差す」と早くも“西野離れ”の声を聞く。落選した野田氏だが、「長年自民党に貢献した」として自民党は「熊本県衆院支部」の新設を許した。引退した大島理森氏も同様と云われ政党活動が出来る。



 駐車場に行く途中タクシーが通路を塞いでいたのでクラクションを鳴らした。それが気に喰わないと男が因縁をつけてきた。その男を怒鳴りつけた声を聞いて市民が110番に通報。駆けつけた警官は訳もなく筆者のバッグと財布を広げさせて中身を調べた。「覚醒剤、大麻がないか」と。将来捜査2課を目指しているらしいが“その前に実績をと思っての事だろう。さもしい奴ではある。

 そのトラブルは筆者の月極駐車場で発生、後述しているが、筆者が鳴らしたクラクションに因縁をつけてきた事に始まる。男を筆者が一喝して事態は収まった時、通報で駆けつけて来たのがこの巡査部長と女性巡査である。この巡査部長は名前も階級も名乗らなかったが、制服の肩章の星の数で巡査部長と判断した(以降部長と称す)。

 駆け付けた部長が筆者に「何かあったんですか」聞いたので「一寸トラブったが済みました」と云って筆者は神社の裏の鳥居の方に歩こうとしたが、その部長が「何があったか聞かせて下さい」と云う。筆者は午後4時10分に事務所で人と会う約束をしており、今がその時間であった。しかし、部長は筆者の前に立っているので押し退けてゆけないので手短かに話しだしたのである。所が部長は「別々に話を聴こう」と云って因縁男を連れ筆者から離れたので、残された女性巡査に事の経緯を語る事になった。筆者の口調が穏やかだったのはその巡査が知っている筈。程なく部長は“因縁男”を連れて筆者の横を通り、その男に「あんたは行きなさい」と云って裏の出入口に向かわせようとした。

 男が筆者に言葉を掛けかかったが、部長はそれを阻止して「いいからあんたは帰りなさい」と強い口調で云ったので男は出ていった。この時筆者は「この部長は男に事情を聴いて男に非があると判断したな」と思ったのである。その時筆者はまだ女性巡査に説明中で、部長は一旦道路に出た後すぐ引き返して来て筆者と女性巡査の間に入り込んだ。この時の部長の目線が筆者の持つセカンドバッグに向いているのを察知した。部長は「私達が近くに居たら胸に日の丸を付けた人が『そこで右翼の福島さんが人にいじめられている』と云ったので駆け付けたのです」とトンチンカンな事を云いだした。それを聞いて「この部長は相当ボンクラだな」と思った。胸に日の丸は右翼であろう。右翼の者が筆者と男が対決しているのを見たら「福島さん何かあったんですか」と筆者の所に来る筈、わざわざ巡査連中の所に行って通報するなど100%ないのである。要は、このボンクラ部長は「通報者隠し」の為作り話をしたのである(詳細は別欄で記す)。

 部長は「何か凶器を持っていませんか、ポケットの物を出して下さい」と云ったので筆者がズボンのポケットからキーホルダーを出し「これが凶器です」と冗談を云いながら出すと「危ないですね」と冗談で返した。「これ以外にありません」と云ったら「バッグの中を見せて下さい」と云ったので、バッグの蓋を開けて見せ、すぐ蓋を閉めたら「中の財布を見せて下さい」と云う。筆者の財布はバッグより少し小さい長財布である。再びバッグを開けて財布だけしか入っていないのを見せて蓋を閉めたら「財布を見せて下さい」と云う。普段ならこの辺で頭にきて「何で見せなんとか」と噛みつく所だが、この日は何故か筆者の気持ちは穏やかであった。云われるままに財布を出して二つ折りの財布を開いて見せてバッグに戻した。

 所が部長は「よく見せて下さい」と云ったので財布を出して部長の前で二つ折りを広げて見せた所、こやつは筆者の財布を人差し指で左から右になぞって「隙間に何か隠していないか」と探る仕草をして「いいです」と云ったので財布をバッグに戻した。これで一件落着した訳だが、どこまでバカか人が善いのか筆者は「あんた達手取交番と云ったね、私から見ると制服の警官は皆同じに見えるので、あんた達が気付いたら声を掛けてよね」と云って別れたのである。3号線に出ると歩行者専用の信号機の所で3人の警官が何かしていたので筆者の所に来た2人の警官も「ここに居たんだな」と理解したのである。でないと筆者が「俺は右翼だ」と大声を挙げた後、2、3分で来れる筈はない。市民が110番にかけると県警本部の司令室が受けるが、それと同時に警察無線で交番や、勤務中の警官達にも逐一情報が入るのである。5人の警官の内残っていた3人は年配だったので情報が入った時「お前達が行け」と若い2人に指示したのであろう、と筆者は勘繰っている。



クラクションで耳が痛くなった
因縁つけた男に「右翼」で一喝
 この日、9月3日午後4時10分に私は事務所で人と会う約束をしていた。その時間に合わせて3時50分頃手取神社の駐車場に入ろうとしたのである。道路から神社の敷地に入った所でタクシーが止まっていたので軽くクラクションを鳴らした。タクシーはすぐ前進したのでその後を通って奥に向かったんだが、その際左側に問題の男が立っていたのである。私はその男の横をゆっくり走りながら顔をチラッと見たら明らかにこちらに敵意を持った顔であった。謂う所の“がんを付ける目”である。右目に眼帯を付けていて人相がよくない。私は社殿を回って私の区画に駐車した。エンジンを切って車から降りた所にその男が歩いて近付いた。私の方に来かかったが、そこで立ち止まった。その日の私の服装は黒の長袖ポロシャツに白いズボン、黒皮のセカンドバッグを持っていた。見方次第で「その筋の男」ととれない事はない。私に近付きかかって止まったのはその所為であろう。

 男がここまで来るのは云い分があるのだろう。私はその男に「何か用ですか」と声を掛けた。これが悪かった。いつもだとこんな状況になった時、私は「何か用か」と強気に云うんだか、その日の私は自分でも「何故?」と思う程、心が穏やかであった。で、先の「何か用ですか」と優しく聞いたのである。

 この一言でこのバカ男は「与くみし易い相手」と読んだのでろう。「あんた今クラクションを鳴らしたろ」と云うので「はい鳴らしましたが貴方に鳴らしたのではありません。私は止まっていたタクシーに動いてくれるよう鳴らしたんですよ」と答える。男は「今日耳の手術をしたばかりでクラクションで耳が痛くなった」と云う。よく見ると右耳の下から首にかけて古い傷痕が見える。男は私の車を見ながら「あの車があんたのやな」と云う。私は「そうですよ」と答えたが、これは一種の脅しである(その後、車のサイドに人手によると思われる傷がついた。この男がやったとは云わないが)。「さっきから云っているように私は貴方に鳴らしたのではありません。タクシーに鳴らしたのです」と再度云うと男は「お前マスクをしてないな」と云う。ここで「この男は因縁を付けに来ているな」と確信したのである。私が「私は道を歩く時はマスクはしませんよ」と云いながら神社の裏の出入口の方に少し歩を進める。こちらは4時10分までに事務所に戻らなければならないので「この辺で切り上げたい」と思っているので男と向き合ったまま少しずつ移動して「あのクラクションはタクシーに鳴らしたのであって貴方に鳴らしたのではないので誤解せんで下さいよ」と云うが納得しない。2、3回同じ様な説明をしたので話を打ち切って歩き出そうとしたら突然その男が「謝れ」と云ったのである。「何で私が謝らんとならんとですか」と云うと又「謝れ」と強く云う。ここで私の“堪忍袋の緒”が切れた。「こらあ、今さっきから大人しくしとったら、どこまでつけ上がるんじゃ。俺は右翼じゃ、右翼相手に喧嘩を売るんか」と怒鳴りつけたのである。男は一瞬怯んで一歩下ったが又前に出て「何処の右翼か」と云ったので「日本の右翼じゃ」と云ったら大人しくなった。

 この時の私の大声を近くのマンションの中年女が聞いて「右翼が人をいじめている」と早合点して110番したものと思われる。相手が大人しくなったので「文句はないな」と云って私がその男と別れようとした所に先述した巡査部長ら2人が駆け付けて来たのである。私が大声を出して2、3分経ったかどうかの早さであった。



一考の余地あり
現場の分離事情聴取
 今回のトラブルに限らず現地に出動した警官は、相手が複数人居た場合、別々に事情を聴こうとする。恐らく職務規定にあるのだろうと思うが、当時者を離して別々に事情を聴く。交通事故やトラブルの時も同様である。当事者双方が怒りまくっていれば別々に事情聴取も当然だろう。だが筆者が経験したり、見た現場の殆どが別々に聴き取っている。

 今回がいい例である。相手も筆者も普段の態度で居る所に2人の警官が駆け付け、筆者が経緯を説明しだした途端、巡査部長が一方的に「別々に聴こう」と女性巡査に云って自分は“因縁男”を連れて離した。その時筆者は「一緒でいいよ」と云ったが、この強引部長は聞く耳持たずであった。相手が居た方が筆者の云い分が違ったら「そこは違う」と否定出来るではないか。黙って聴いていたら筆者の話に間違いはないという事である。その逆も又同じであろう。男から事情を聴いて「男の方が仕掛けた」と分ったのかすぐ男を「帰れ」と道路に出したが、この言葉遣いも気を付けた方がいい。その言葉で筆者は「その男は近くのマンションに居る」と判断したのである。筆者がもし嫌がらせを考えていたなら部長は筆者に相手の住所を教えた事になる。しかも筆者が懸命に説明した女性巡査への努力は何の効用もなかった。この女性巡査、部長の指示や、筆者への不当行為について一言もなかった。不当行為を当然と思ったか、勉強をしていたのか。




 上に掲げたのは熊本日日新聞令和3年1月3日付6面である。毎年恒例となっていて一種の“遊びの様なもの”で、読者もこれらの記事を真に受けてはいないと思う。いつもは目も通さずに捨てていたが、本年は「どれ位当たるか見てみよう」という気になって保存していた。早速見てみよう。

 先ずGDPがコロナ前に戻る時期だが、秋までの動きを見ていると深谷幸司氏の22年4月~6月と、西岡純子氏の22年7月~9月が妥当ではないか。森永卓郎氏の「戻らない」は暴言に近い。ドル円については全員が大外れで、深谷氏が一番近いが、それでも6円高い。年末は113円を前後していたと思う。日経平均株価一時3万円を超えたが、大納会の終値は28,791円、西岡氏と、大槻奈那氏の27,000円は夏頃から秋にかけて日経平均は27,000台を保っていた事から“適中”と見ていいだろう。それに近いのが新家義貴氏の26,500円、深谷幸司氏の26、200円が続く。森永卓郎氏に至っては13,000円と予測しているが、どこからこの数字を引っ張って来たのか想像もつかない。ひところ森永氏は、経済アナリストとして経済誌や新聞でよく名前を見かけていたが、最近はほとんど見ることはない。「日本経済がコロナ禍を乗り越えるためのキーワード」については、他の5氏が常識の範囲内の見解を寄せているが、森永氏は「東京封鎖と、東京・東京以外の一国二制度を導入」と奇想天外の考えを述べている。

 次にニューヨーク市場の原油価格について。西岡氏の52ドル、新家氏50ドル、大槻氏48ドル、深谷氏44ドル、上野泰也氏37ドルは外れているが常識的な予測だろう。5、6
月頃は1バーレル60円台で推移していたと思う。その後コロナ禍からの回復が早まった事から経済活動が活発化、加えて産油国が増産に応じなかった事から70円台に上昇、秋口には80円台に乗せた。森永氏の15ドルは番外。「一言コメント」は西岡氏、大槻氏の女性陣が当を得た論評をしているのが目についた。一流経済アナリストに素人の筆者が挑戦した一幕でした。





 熊本市民から「水前寺公園」と呼ばれて親しまれている「成趣園」が今年築庭350年を迎えた。関係者は「水前寺成趣園350年記念実行委員会」を結成、名誉会長に細川護煕氏、特別顧問に蒲島知事、大西市長を据える。顧問団は県下の各メディア、経済界の代表が名を連ね、会長には熊本県文化協会前会長吉丸良治氏が就任、采配を振るった。

 現在成趣園は「水前寺成趣園」と呼ばれているが、元々は成趣園と呼ばれていたらしい。成趣園は理わ由けなき咎で移封となった加藤家の後に入国した初代細川忠利がこの地に寺院と茶屋を創建した。寺院は豊前から連れて来た玄宅和尚が建立、水前寺と名付けたとされる。豊富な湧水が気に入った忠利は水前寺を北に移して(現在の玄宅寺)茶室を建て細川家の別邸とした。細川家三代藩主綱利の代に築山山水式庭園が作られ「成趣園」と名付けられた。旧藩時代は細川家以外の出入りは禁じられていたが、明治4年の廃藩置県により人の出入りは自由になった。明治5年7月御歳21歳の若き明治天皇が初の九州御巡幸の際同園に御成りになられる栄誉に浴した。明治11年園内に細川藤孝(幽斎)公を御祭神とする出水神社が創建された。大正14年、熊本市は出水神社から一帯を借りて公園として整備「水前寺公園」として市民に開放した。昭和4年12月国の「名勝史跡」の指定を受け全国的に知名度が上った。

 以下省略するが、出水神社が昭和36年6月、「入園料徴収」を公表すると共に熊本市に公園の返還を求めた。昭和41年7月出水神社が入園料の徴収を強行。これに反対する周辺商店主らはピケを張って抵抗したが不発に終わった。熊本市も同年11月出水神社との間に結ばれていた賃貸契約を解約し、水前寺成趣園は出水神社の管理下に入った。神社のトップは宮司である。入園料は当初20円であったが、時代に合わせて値上げをした。この財源は公園の維持管理に遣われるが毎年繰越金が出る迄になった。宮司の多くは懐が豊かになった。昭和56年、熊本県警を定年退職したKが細川護煕氏の口利きで出水神社に再就職した。このKと当時のY宮司が結託、神社の資金に不透明な流れが出来た。その後Kが事務局長に就任、神社を運営する責任役員(6名)を無力化して横暴を極めた。平成24年、小紙が情報を得てKを糾弾する特集記事でKの横暴を絶った。熊本県も経理に明るいOBを派遣して経理面を整理、責任役員の働きによって出水神社の運営は正常に復した。その陰に小紙の貢献があったと自負している。



1600万円余の借金
支払いを約束・その日に消えた
 水俣市長選が来年2月に迫ってきた。現職の髙岡利治氏が9月議会で「2期目を目指す」として出馬を表明した。その髙岡氏が過去に事業に失敗し、多額の借金を踏み倒して行方不明となり、連帯保証人が全額を支払わされた不祥事を知る者は少ない。

 髙岡氏の負債を代位弁済した連帯保証人(以降K氏と呼称)は一地方公務員だ。髙岡氏の義兄の紹介で髙岡氏と知り合ったという。紹介の際「髙岡は水泳選手で国体に出場し、旗手も務めた立派な人物だ」と云われたのを真に受けて「すっかり信用した」と悔む。

 髙岡氏は菊池市出身で日体大を卒業、その後建設関係の会社に勤めたとされる。平成4年3月、熊本市本荘町で資本金1千万円で「ソートク株式会社」を設立した。目的欄には「土木工事、建築工事の他造園工事など10項目を挙げている。だがソートク㈱は平成6年9月に「㈱商工ファンド」から300万円を借入れており創業後の事業は順調だったとは云い難い。同9月には「国民金融公庫」から500万円を運転資金として借入れ、毎月8万円、63回払いとした。平成7年9月250万円の約束手形で「シンキ㈱」から借入れた。同月「㈱シティズ」から60回払いを条件に300万円を借入れた。以上の他建設会社Y社長から平成7年9月22日振出しの約手で350万円を借入れている。その約手が不渡りになり、その前後から連帯保証人のK氏に債権者が殺到しだした。



髙岡氏の借入金
全額連帯保証人が清算
 保証人として代位弁済を迫られたK氏は髙岡氏に「どうなっているのか」と支払いについて催促した結果、平成7年12月20日「誓約書を渡す」と云った髙岡氏に会った。そこで渡されたのが手書きのメモの様な“返済書”であった(写し参照)。

 K氏はこれを手にして帰ったが、その時の髙岡氏の言動に不信感を持ち、翌21日髙岡氏の自宅を訪ねた。その頃髙岡氏は義兄宅に同居していたので義兄宅を訪れた訳だが、義兄はK氏を自宅に入れず「髙岡は外出中だ、いつ帰るか分からない」と門前払いを喰った。諦めきれないK氏は翌日再度義兄宅を訪ねてそれまで髙岡氏が住んでいた部屋を見ると家具類が消えて広間になっており、そこで某宗教団体が集会を開いていた。その中の一人に「髙岡さんは?」と尋ねると「髙岡さんなんて知りません、ここは前から私達の集会所になっています」と取り付く島もない。

 年が明けると先述した金融業者から矢の催促が来る様になりK氏は事情を話して信用金庫から融資を受け連帯保証人としての責任を果たした。この間K氏は「体重が3キロ減る程心身が疲れてしまった」と語る。

 K氏が代位弁済した金額は、平成8年1月16日シンキ㈱250万円。17日㈱商工ファンド100万円。18日同10万円。25日同192万円で計302万625円。同1月25日㈱シティズ292万円。以上は街金を含む金融機関だが、これとは別に髙岡氏は建設会社S社長から350万円を借りていた。髙岡氏からの返済を見切ったS社長は350万円を暴力団幹部に債権譲渡、新たに金銭借用書を作成して借り受人を髙岡氏の義兄とし、連帯保証人はK氏のままであった。この350万円もK氏が直接暴力団幹部に支払っており、総額は1665万651円を代位弁済している。



髙岡市長
100万円なら払う
 髙岡利治氏がK氏や他の債権者の目を逃れて姿を消したのが平成7年12月21日頃である。以後消息不明となっていたが平成30年2月6日付熊日に「水俣市長に新人髙岡氏」の記事が載った。この記事をK氏が読み「夜逃げした髙岡が水俣市長に」と驚くとともに髙岡氏の所在を知ったのである。小紙の取材によると髙岡氏は地元選出の吉永和世県議の秘書を務めていて水俣市に住むようになった。その後水俣市議を3期務めた後、平成30年1月市長選に出馬、2月4日の投票で市長の座を射止めたのである。これから逆算すると髙岡氏は平成18年に水俣市議になった事になる。K氏を始めとする債権者から消えたのが平成7年12月だ。この10年の間一期間吉永県議の秘書を務めた訳だがK氏がその事実を知る事はなかった。水俣市長当選の熊日報道で髙岡氏の所在を知ったK氏は、暫くして髙岡氏に電話で連絡を取り、代位弁済した金額に法定利息を付けた金額の支払いを求めた。何度か電話で遣り取りをした後「電話では埒が明かない」として髙岡氏に熊本に来る様に要請した。それに応じた髙岡氏が熊本駅まで出て来たので話合ったが髙岡氏は“時効”を楯に「支払い義務はない」と主張して支払いに応じる意志がない事が分かった。その後髙岡氏側は代理人として弁護士に依頼した為K氏も弁護士に委任した。K氏も金銭貸借が時効(個人10年、会社5年)であるのは承知していたが、自分が金策に苦労した事、求償に対する不誠意、謝罪もしない非人間性に対する怒りを追及したかったのである。K氏側は最終的に300万円を提示したが髙岡氏側は「解決金100万円であれば何とかしたいと存じます」の最終回答であった。K氏は「自分のプライドが許さない。今後髙岡氏の公人としての責任を追及していく」としてこの回答を拒絶した。髙岡利治市長に云いたい。法的には無効だが、貴殿の人間として、又公人として道義的責任からは逃れられないと。


髙岡氏が逐電前日にK氏に渡した返済誓約書


国民金融公庫に提出した借用書


髙岡氏側代理人の最終回答書



 前号を発行した後「11月20日には本号を出せるな」と思っていたが、目先きの雑用に追われて時間だけが流れた。加えて気胸の予後が意外に時間を要した上、12月初旬には肺炎まで発症する始末。寝込むまでには至らなかったが、毎日37度~38度の微熱が続き抗生物質の点滴を受けたが改善せず遣る気が起きない。12月初旬にはゲラまでいったが差替えたりで年を越えての発行となった。心からお詫びしたい。今号の1面は衆院選熊本2区の結果について感想を書いた。当選した西野太亮氏の今後に注視していきたい。2面は筆者の私憤が含まれてもいるが、昼日中何ら不審な行動のない市民の財布の中身を覗くのは明らかに職権の乱用である。交番は警察の情報収集の最前線であり、市民の反感を買う行為は慎んでもらいたい。

◆4面の髙岡利治水俣市長の厚顔振りを暴いた。「連帯保証人が辛労辛苦の末自分の負債を返済してくれた」との思いはない様だ。そのお陰で現在の自分があるとの思いに至らない人物が市長のポストに就いているのである。猛省を促したい。
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